沌珍館企画 文芸部論文課 「見れる」「出れる」の構造分析







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はじめに


     「日本語は乱れていないか」−こういった問いが発せられるようになってから、すでに久しい。「どういうことばに日本語の乱れを感じますか」というようなアンケートをとれば、たぶん、カタカナ語や省略語の氾濫、あいさつ語や敬語に関してはもとより、送りがな、あて字にいたるまで、それこそ山と出てくるのではないかと思う。
     しかしその多くは、結局、支持か不支持かといった態度の問題に行き着くのに対し、これから述べる「見れる」「出れる」に関しては、認めるか認めないかという以前に、今もってその正体すらはっきりとしていないのである。
     学説はまさに百家争鳴、みなさんそろって暗中模索、ああでもない、こうでもないで月は東に日は西に。というわけで、以下これまでのたくさんの説明や論争のあとをたどりながら、自分なりにこの「見れる」「出れる」を位置づけてみようと思う。

「見れる」の検察側から


     「見れる」「出れる」「来れる」−金田一春彦氏は著書『新日本語論』のなかで「このような言い方を日本語の乱れの随一に数える人が多い」と書いている。(1)
     事実、木下順二氏は「あの言い方はどうもおかしいよ、というより、まちがってるよ、ということを・・ぎりぎりまで言い張って」いたいというし(2)、丸谷才一氏は『日本語のために』で「言ふまでもなく、見られる、来られるが正しいのである」と一刀両断(3)。
     だがさすがにNHKは理由も示して「五段活用以外の動詞(たとえば「見る」「出る」など)に付く助動詞は<れる>ではなく<られる>だから、「見れる」「出れる」はマチガイである」としており、「<られる>を取るべき動詞なのに<れる>を取ったから」間違いだという大久保忠利氏(4)や、「<られる>から<れる>への転訛−日本語の言い回しを少しでも短くし、略式にしようとする流れ」だというロゲルギストK2氏(5)なども同じような立場をとっている。
     朝日新聞の「天声人語」にもかくの如き一文がある。「出られる・着られるをちぢめて、出れる・着れるという人もふえている。これも国語の乱れだ」(6)。
     だが、<られる>にかわって<れる>が付くようになったという説明にせよ、「見られる」「出られる」の<ら>音が落ちて短くなったという説明にせよ、この種の意見は「見れる」「出れる」という言い方が可能の意味にしか使われていないという決定的な事実を見逃している。あるいは、ロゲルギストK2氏のように、「おもしろいことに・・」の文脈で片づけてしまっている。
     <れる>であれ<られる>であれ、ご存じのように受身・可能・尊敬・自発という四つの用法をそなえている。それがなぜ可能にしか使われないのだろうか。この点はいくら強調してもしすぎることはないと思う。
     単に<ら>音が落ちて短くなり、可能のみを表すようになった、というのはまったく説明になっていないし、事実を理論に優先させる限り、可能しか表さない「見れる」「出れる」は、八方美人の<れる><られる>とは切り離して考えるべきであると思う。

「見れる」の弁護側から


     こんどは「見れる」「出れる」を認める側の意見をみてみよう。国立国語研究所の永野賢氏は「来れる・見れるは受身や尊敬の言い方と区別できるので、来られる・見られるより優れている」と言っているそうである(7)。優れているかどうかは別として、可能のみの用法ということは、たしかに有用であると言っても良いと思う。
     だが「恥の日本語」(8)でこの区別を過大に評価した田中克彦氏は、可能動詞としての「(風呂に)はいれる」と動詞+助動詞としての「はいらレル」との区別が付かなかったために、方言や敬語の問題まで持ち出して来ても、結局、主張としては「見れる」「出れる」は<れる>の誤用ではあるが、必要が規範を破るのであるから積極的に認める、というだけのことで、やはり<れる><られる>の域を脱してはいない。あとで述べるが、「見れる」「出れる」が可能のみの表現として、尊敬や受身などから区別できるということは、ただ結果としての副産物にすぎないのである。
     同様に、これらの言い方を「言葉の乱れ」とした森永武治氏(9)と朝日紙上論争を起こした斎藤風勢夫氏(10)も、つまるところ各人の個性と時代の流れには文句をつけるなということであり、いまひとつ押しが足りない。
     また変形生成文法の立場からは、「読む」「見る」「出る」などのyom−,mi−,de−,という「不変部分」に<−reru,れる>を付けて、もしyomreruのように子音が重なったら後の方を落とすと可能動詞ができるから、「見れる」「出れる」も正しいのだ(11)という意見も出されている。これでは<れる>の多義性は断ち切れないだけでなく、それならどうして今まで「読める」という形があって「見れる」「出れる」という形が出てこなかったのか、という点についての説明がつかない。普遍化はお得意らしいが、これは普遍化の勇み足である。
     ではいったい「見れる」「出れる」という言い方はなんなのか。ぜひともその正体をつきとめる必要があるのである。

可能動詞とは


     そのためにもまず、可能動詞というものを調べてみよう。例をわかりやすくするために、これから「読む」を五段活用の動詞の代表として、「見る」を上一段、「出る」を下一段の代表として話を進めて行こうと思う(表1)。なお、五段と四段は現代語と古語との違いで、活用としては本質的には同じである。

    ・表1
    「読む」五段活用(あいうえお型)
    未然形連用形終止形連体形仮定形命令形
    よまナイ、よもウよみマスよむ。よむトキよめバよめ!

    「見る」上一段活用(いの段型)
    未然形連用形終止形連体形仮定形命令形
     みナイ、みヨウ みマスみる。みるトキみれバみろ!

    「出る」下一段活用(えの段型)
    未然形連用形終止形連体形仮定形命令形
     でナイ、でヨウ でマスでる。でるトキでれバでろ!

     さて、可能動詞という形は五段活用の動詞にのみ存在し、それ自身は下一段に活用する(表2)。ちなみに、『日本国語大辞典』(12)には次のような説明がある。
    【可能動詞】五段(四段)活用の動詞が下一段活用に転じて可能の意味を持つようになったもの。「読める」「書ける」「言える」などの類で、中世末期頃から見られる。命令形はない。発生については諸説があり、明らかではない。

    ・表2
    「読める」下一段活用
    未然形連用形終止形連体形仮定形
     よめナイ よめマス よめる。 よめるトキ よめれバ

    「はいれる」下一段活用
    未然形連用形終止形連体形仮定形
    はいれナイはいれマスはいれる。はいれるトキはいれれバ

     これが可能動詞のおもてづらである。しかし、出生明ラカナラズとはまたニクイではないか。
     それはともかく、橋本進吉氏の『助詞・助動詞の研究』(13)や、時枝誠記氏の『日本文法口語編』(14)、三矢重松氏の『高等日本文法』(15)や、宮地幸一氏の「移り行く可能表現」(16)などにもやはり、表現こそちがえ「可能動詞とは五段(四段)活用の動詞が下一段に転じたもの」との説明がある。
     しかし思うに、これは記述ではあっても説明にはならないのではないか。活用の型を変えただけでどうして可能の意味をおびるようになるのだろう。下一段という活用の型自体が可能の意味を担っているというのだろうか。
    だが、もしそうであれば、「出る」「減る」「詰める」「捨てる」など下一段の動詞はすべてそのままで「可能」でなくてはならなくなる。
     このように、活用の型だけから可能動詞を考えていくと、「どうして?」と問われたときに「こうだから、こうなのだ」というよりほかに言いようのない袋小路に追い込まれてしまう。

     それに対して、たとえば「読める」という可能動詞は「読まレル」から出来たのだという「五段動詞+助動詞<れる>」から、という説明がある。つまり表3のように真ん中が抜けて短くなったのだという説明であるが、「はいれる」と「はいらレル」のように極めて似た形のものも多いために、可能動詞は五段+<れる>からというこの説は、これまで山田孝雄氏の『日本口語法講義』(17)や、浅野信氏の『日本文法語法論』(18)などを始め、多くの人々によって唱えられてきた。

    ・表3
    よまレルyoma・reru
     ↓  yom(a・r)eru
    よめるyom・eru

     しかし、何度も言うように、<れる>という助動詞が付いて出来たというのなら、どうして可能しか表さないのだろうか。<れる>が成分であれば、受身や尊敬、自発などを表すようになってもおかしくないはずである。
     逆に言えば、a・rが落ちる(本当に?)という事と、受身や尊敬が排除されるという事との間には、なんの必然性もないじゃないか、という事である。やはりこの説明にも無理があると言わねばならない。
     また、動詞の仮定形+<る>という説もある(19)。「読む」の仮定形「読め」に<る>を付けて「読める」とする。<る>はハモる、ジャズるなどの、動詞化の<る>であるらしい。だがこの<る>は五段に活用するから、「可能動詞は下一段」という事実に合わないだけでなく、この法則が成り立つのならとうの昔に「見る」の仮定形「見れ」に<る>を付けた「見れる」という可能動詞が存在してしかるべきである。
     というわけで、可能動詞に関しては活用変化説も<れる>説も仮定形説も、まだその姿を解きあかすには至っていないのである。

「得る」


     そこで「読める」は「読み得る」から、という説明がやっと日のめを見る。遠くは大槻文彦氏の『広日本文典』(20)や芳賀矢一氏の『口語文典大要』(21)、最近では渡辺実氏の「行ける・見れる」(22)などによって主張されてきたが、いずれもこれというキメ手に欠けていた。しかし、ここで問題の「見れる」「出れる」という形を解明することによって、逆に可能動詞は「動詞+得る」からであるということの証明がはっきりつくようになると思う。
     まず、音声的な変化について見てみよう。表4のように「読み得る」が「読める」となるのは、日本語の場合、はっきりした母音が二つ続く場合は一方を弱めて二重母音にするか、先行(前のほう)母音を落とすかして「子音+母音」という形の繰り返しに収めてしまおうという傾向が強いことによる。
     大野晋氏の『日本語をさかのぼる』(23)には、この方法で作られた言葉として、「取り合へ(tori・afe)」からの「捕らへ(torafe)」、「押し合へ(osi・afe)」からの「押さへ(osafe)」などの例が挙げられており、その他の例も多い。アリソは荒磯、ミチノクは道の奥であるし、「であろう・であった」の先行母音が落ちれば「だろう・だった」になる。
     「読み得る」のなかの先行母音である<i>が落ちて「読める」になるという変化は、「読まレル」から<a・r>が落ちるなどという日本語としてはほとんど例をみない変化(の説明)よりもはるかに可能性が高い。

    ・表4
    よみえるyomi・eru
     ↓yom(i)eru
    よめるyom・eru

     意味の点ではもう言うことはないだろう。「読む」という動詞に「〜できる」という意味の「得る」をつけるのであるからまぎれもなく可能であり、それ以外ではあり得ない。尊敬や受身などは表さない、というのは可能動詞が「得る」によるものだとすれば当然である。
     「読める」「入れる」など、これらの可能動詞が下一段に活用するというのも、「得る」が下一段活用であるということから説明がつく。これはたとえば「見る」は上一段であるが、これに「直す」という五段活用の動詞をつけた「見直す」は五段に活用する、というのと同じ理屈である。「読める」で活用変化しているのは「得る」の部分なのである。
     また、可能動詞の発生は室町時代ごろ、という時期については珍しく各派の意見が一致しているが、これは「得(う)」という下二段活用の動詞が「得(え)る」という下一段活用に変化を遂げた時期と一致するのである。
     なお、坂梨隆三氏は「読むる」という下二段の形こそが、可能動詞のもとの形である(24)としているが、「得(う)」は「得(え)る」に至るまでに「得(う)る」という形を通っており、「読むる」は「読み得(う)る」からと説明できると思う。坂梨氏の説明では「読むる」は「読む」が下二段化したもの、というだけであって、なぜ「読むる」が可能を表すのかは説明できないことになる。
     以上、発音変化の妥当性、可能に限定されていること、下一段活用であること、そして発生の時期など、可能動詞は「得る」という下一段の動詞によるものである、とみてまず間違いはないと思う。

母音連続の処理


     さて、「読み得る」が「読める」になったのは、強い母音の連続をさけるためであった。しかしこれは五段活用の動詞であればこそ、の話なのである。
    たとえば「読む」に例をとってみよう。yomuがどのように活用したとしても『yom−』という形であれば、つまり<ヨ>の次がマ行五段のいずれかであれば、これは「読む」の活用形だな、ということが判るのである。yomi・eruがyomeruになっても、「読む」に関係のある言葉だということはすぐに判る。これが五段活用の動詞の特色である。
     だが例えば上一段活用ではこうはいかない。「見る」はmi−という形で活用する。つまり、後ろにeruを付けて例の先行母音欠落となると、m・eruとなってしまって、「mi=見」だということが判らなくなる。
     下一段活用では逆に、「出る」はde−という形なので、eruを付けて前の母音を落としたとしてもd・eruという形になって元の「出る」とまったく変わらず、「可能」にならない。そしてこれこそがまさに室町時代から何百年ものあいだ、上一段や下一段からは可能動詞が生まれてこなかった原因なのである。
     五段動詞は先行母音欠落という方法で可能動詞形を作った。ところがこの方法は上一段や下一段ではうまくいかない。−−このことを「可能動詞は五段動詞にのみ存在し・・」という現実と照らし合わせてみるとき、可能動詞は「動詞+得る」だということはますますはっきりとしてくるのではないだろうか。
     もちろん、現在でも「読み得る」という形は存在する。しかしこのようにあえて母音の連続を残しておくというのは、多くの場合、強調のためである。
     また、なにも<i>を落とすことはない、「見える,mieru」というそのままの形があるではないか、という意見には、「見える」は可能動詞ではないと言っておこう。「見える」は古語では「見ゆ」であるから、見えてくる、ぐらいの意味であり、「聞こえる」も「聞こゆ」からである。もし「見える」「聞こえる」が可能を表すのであれば、もとは「消ゆ」「耐ゆ」などであった「消える」「耐える」なども等しく可能動詞でなくてはならない。
     この混乱の原因は「見える(mieru)」や「聞こえる(kikoeru)という形が、「mi=見」や「kik=聞」というはっきりした意味を担う部分に、可能のeruが付いたような形をしているためである。「消える(kieru)」や「耐える(taeru)」などではeruを可能に割り当ててしまったら、何が可能になるのか判らなくなってしまう。

子音挿入


     というわけで、「動詞+得る」という形で可能動詞ができるのであるが、五段の「入る」には「入れる」という可能動詞があるのに、「出る」は下一段であるがゆえに可能動詞形はない、というのは不合理ではないか、という問題が出てくる。
     だが、五段だの下一段だのといった味気ない議論から一歩身を引いて考えてみると、我々はふだんの会話では絶対にそういう分類など意識しない。つまり上一段だろうが下一段だろうが、可能動詞をつくろうとするのである。
    母音の連続を避けるためには、先行母音欠落という方法があることは既に述べた。だがもう一つ、二つの母音の間に子音を単なる絶縁体として挟む方法がある。
     これはフランス語が単語の語尾でしょっちゅうやっていることであるが、フランス語はどうも・・というムキには英語の<an>という冠詞はどういう場合に<a>の指名代打になるかを考えてみればよろしい。
     また、階級や地域の違いでよく問題になるものに、carやfloorなどの<r>を発音するかしないかというのがあるが、例えばshareという単語では<r>を発音しない人や地方でも、sharingという場合には必ず<r>は発音される。同じようなことは、thereと、there isとの場合にも言える。
     日本語で言えば「春雨harusame」「村雨(叢雨)murasame」などの<s>がそうであるし(25)、「真っ青massao」の<s>、さらには「おっとっと」の<t>もそうだという人もいる。金田一京助氏は『国語音韻論』のなかで「場合bawai」の<w>、「おみおつけomiyotuke」「(ざまぁ)見上がれmiyagare」「ダイヤモンドdaiyamondo」などの<y>などを子音挿入の例として挙げている(26)。
     なにが言いたいのかは、もうお判りと思う。「見れる」「出れる」の<r>がそうなのである。上一段や下一段は、先行母音欠落という形では可能動詞を作れない。そこで、母音連続をなんとかしようということで、子音挿入という手段に出たのである。
     だがなぜ<s>でも<t>でもなく、<r>なのか。これはもう「見られる」「出られる」の影響である。原則的には何でもよいのだが、同じような可能表現として「見られる」「出られる」という形の語尾が影響しないはずはない。
    かくして、「見れる」はmi・r・eru、「出れる」はde・r・eruという形であることが判った。いままで、先行母音欠落の一本槍で五段活用の動詞に独占されていた可能動詞というカテゴリーは、<r>の一音で上一段や下一段活用の動詞に対しても開かれたのである。
     たとえば「読む」を考えてみよう。「読める」という可能専用の形を既に持ったこの動詞は、もはや「読まレル」には可能の意味を受け持たせてはいないように思う。尊敬には「お読みになる」という形が広まってきている。つまり、可能・受身・尊敬と、形式の上で区別ができるようになりつつあるのである。
    それが「見る」や「出る」にも広がっているのだ。可能は「見れる」、受身は「見ラレル」、尊敬は「ご覧になる」。可能は「出れる」、(迷惑な)受身が「出られる」、尊敬が「お出になる」などなど。
     「見れる」が「見ラレル」の多義性とは区別できるというのはただの副産物にすぎないと言ったのは、そのことは「見れる」が「得る」による可能動詞である以上当然であって、それより大事なのは、五段活用以外の動詞からも可能動詞が生まれつつあるという新しい息吹を感じ取ることなのである。

「来れる」について


     ここで、カ行変格活用の「来る」とサ行変格活用の「する」についても少し述べておきたい。まず、可能動詞が「動詞+得る」だと言っても、正確には「動詞の連用形+得る」であるから、あいだに<r>を挟んだとしても「来れるkoreru」はおかしい。「きれるkireru」になるはずである。
     これは「得る」の体系的な説明ということから言えば例外としてもいいのだが(だからこそ変格活用なのだろう)、考えられるのは、母音連続の処理に子音挿入という手をとる上一段・下一段とも、未然形・連用形の区別がないということである。したがって、カ変「くる」では「これる」と「きれる」が出来てしまうが、「こられる」という今までの言い方に引かれて「これる」が選ばれてしまうのではないと思う。
     また、サ変「する」であるが、「−する」は「−しうる、しえる」止まりで、現在では<r>音は入らない。理屈から言えば入ってもいいのだが、そんな面倒なことをするよりも、「−できる」という表現のほうが使いやすいからかも知れない。
     いずれにせよ、カ変・サ変の例は、五段・上一段・下一段における可能動詞の成立についての説明に対して反例となるほどのものではない。例えば、古語に過去の助動詞「き」というのがある。ふつうは動詞の連用形につくのであるが、例外としてカ変とサ変にだけは、未然形と連用形のどちらにも付くのである。こうなると「得る」も、getの動詞「得る」と、canの助動詞<える>とに分けてしまったほうがよいのではないかという気もしないではない。

「乱れ」かどうか


     以上「得る」という動詞を中心に可能動詞を、そしてその新しい形として「見れる」「出れる」という言い方について考えてきた。しかし、これはあくまでも「分析」である。なんとか理屈が付けられたということと、だから言葉の乱れではないということは、すぐには一致しないのが現実である。
     結局ことばの乱れとは何だという問題に戻ってしまうが、何かを乱れていると称するには乱れていない何かが基準として必要になることは言うまでもない。その意味で、福田恒存氏が、自分は「見られる」を「見れる」というように言うのを乱れていると言うのだ、と言っているというのは「見れる」の中身はともかく、態度としては筋が通っていると思う。
     だがことばの基準・規範はじっさいの慣用からは常に一歩おくれて確立するということ、逆にいえば、ことばは文法を生むが、文法を生んだことば自身は文法よりも先に変化していくものだということを考えれば、文法が基準・規範である限り、そしてことばが常に変化・変容しながら生きている限り、ことばは常に乱れていることになる。
     つまりは、「みにくいアヒルの子」での多数決の論理のような次元においてのみ、乱れか否かを論じることができるだけではないか、ということである。塚原鉄雄氏のことばを借りれば、やはり「時代に共通の誤用ということは、時代に共通の正用ということになる」(27)ほかはないのである。

参考文献


    (1)金田一春彦『新日本語論』p.124(筑摩書房、昭和46年)
    (2)木下順二「日本語ブーム」(『朝日ジャーナル』76年7月9日号,p.27)
    (3)丸谷才一『日本語のために』p.166(新潮社、昭和49年)
    (4)大久保忠利『日本文法の心理と論理』p.143(国土社、昭和50年)
    (5)ロゲルギストK2「日本語は変わりつつある」(『自然』76年5月号、p.82,中央公論社)
    (6)「天声人語」(朝日新聞、昭和52年5月28日)
    (7)久世善男『日本語雑学百科』p.135(新人物往来社、昭和50年)
    (8)田中克彦「恥の日本語」(『展望』76年9月号、p.50〜52、筑摩書房)
    (9)森永武治「ことばの破格と混乱」(朝日新聞「論壇」、76年10月9日)
    (10)斎藤風勢夫「ことばの乱れに反論」(朝日新聞「論壇」、76年11月4日)
    (11)小村晶子「みれる・でれるについて」(『言論』77年10月号、p.120,大修館)
    (12)『日本国語大辞典』第5巻、p.61(小学館、昭和48年)
    (13)『橋本進吉博士著作集8、助詞・助動詞の研究』p.273(岩波書店、昭和44年)
    (14)時枝誠記『日本文法口語篇』p.118(岩波全書、昭和25年)
    (15)三矢重松『高等日本文法』p.180(明治書院、大正15年)
    (16)宮地幸一「移りゆく可能表現」(『金田一博士古希記念・言語民族論叢』p.646,三省堂、昭和28年)
    (17)山田孝雄『日本口語法講義』p.110(宝文館、大正11年)
    (18)浅野信『日本文法語法論』p.393(桜楓社、昭和44年)
    (19)「見れるは正しい言い方か」(『言語生活』74年9月号、p.78,筑摩書房)
    (20)大槻文彦『広日本文典』p.77,p.113(明治20年)
    (21)芳賀矢一『口語文典大要』p.54(大正2年)
    (22)渡辺実「行ける・見れる」(『月刊文法』昭和44年6月号,p.18,明治書院)
    (23)大野晋『日本語をさかのぼる』p.70(岩波新書、昭和49年)
    (24)坂梨隆三「いわゆる可能動詞の成立について」(『国語と国文学』昭和44年11月号p.35〜46、至文堂)
    (25)寺川喜四男『音声・音韻論』p.227(法政大学出版局、昭和25年)
    (26)金田一京助『国語音韻論』p.124(刀江書院、昭和38年)
    (27)塚原鉄雄「正用と誤用のあいだ」(『朝日ジャーナル』77年9月17日号、p.27


増渕光伸「見れる・出れるの構造分析」昭和52年(1977年)
一橋大学津田塾大学日本語研究会『日本語の中へ』第2号収録のまま
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