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はじめに![]()
このまえ初めて見に行ったF1日本グランプリのことを書きます。前の日の晩、ぼくはどきどきしてあまりよく眠れませんでした。いつのまにかそのまま目覚ましが鳴って、まだ暗いうちに始発に乗りました。電車のなかでパンを食べて三角パックの牛乳をストローで飲んで、何度か乗り換えて国鉄東海道線の御殿場駅に着きました。着いたころにはもう駅は人であふれていました。
駅前からは直通バスが出ていました。ぎゅうぎゅう詰めで座れませんでしたが、ついに初めての富士スピードウェイに着きました。1977年F1世界選手権、最終戦の日本グランプリです。いろいろな旗や看板がたくさん出ていましたが、建物や壁とかはあまりきれいではなかったのが、ちょっと意外でした。 入場ゲートでは前売り入場券と引き換えに公式ガイドブックを貰いました。表紙はニキ・ラウダ、ジョディ・シェクター、カルロス・ロイテマンでした。どうしてこの3人なのかなと思いましたが、よくわかりませんでした。 ニキ・ラウダは2戦前のアメリカで既に得点差で77年のチャンピオンに決まっていました。ぼくは、次のカナダを欠場したラウダが最終戦の富士にも来ないことを何日か前に新聞で知りました。正直言って、なんだかがっかりしました。記事には「ニッキ・ラウダ(フェラーリ)の代役にカナダの新人ギレス・ビルヌーブ」「決勝はマリオ・アンドレッチ(ロータス)とジェームス・ハント(マクラーレン)の一騎打ちか」などと書いてありました。新聞だとへんな名前になるんだなと思いました。 初めての1.5リッター・ターボで参戦していたルノーのジャン・ピエール・ジャブイーユも来ないそうです。理由はわかりません。人種差別反対の人権団体が、人種差別政策をとる南アフリカ共和国の出身という理由でジョディ・シェクターの入国に反対している、という話も読みました。ぼくは、ずいぶんむちゃくちゃな話だと思いました。 でもその頃は、ラウダが来ないことで結果的に起きる事故のことは、ぼくだけでなく誰も予想もしていなかったと思います。 ![]()
ガイドブックには、前日の予戦タイムによるスターティンググリッドが挟まれていました。イン側のポールポジションはロータス78のマリオ・アンドレッティ、その左にマクラーレンM26のジェームズ・ハント。2列めはジョン・ワトソンとハンス・スタックのブラバムBT45Bが並んでいます。
3列めはジャック・ラフィーのオールフランス・リジェマトラJS7と、ジョディ・シェクターのウルフWR1。4列めにやっとカルロス・ロイテマンのフェラーリ312T2とヨッヘン・マスのマクラーレンM26。 5列めから徐々に車種もふえて、ビットリオ・ブランビラのサーティーズTS19と、クレイ・レガッツォーニのエンサインN177。6列目には星野一義のコジマKE009、「日本一速い男」でも予選11位です。隣はアラン・ジョーンズのシャドウDN8。7列めには同じくシャドウDN8のリカルド・パトレーゼとロータス78のグンナー・ニルソン。 8列めは6輪車エルフ・タイレルP34/2のパトリック・デュパイエとエンサインN177のパトリック・タンベイ。9列めにリジェ・マトラJS7のジャン・ピエール・ジャリエとタイレル6輪のロニー・ピーターソンが続きます。 10列めが高原敬武のコジマKE009とジル・ビルニューブのフェラーリ312T2。11列めがハンス・ビンダーのサーティーズTS19と、出ました国さん高橋国光のタイレル007、最後の12列めはアレックス・リベイロのマーチ761Bで、以上23台。残り3台分は空席です。 グリッド表のコメントにはこう書いてありました。 ※ニッキ・ラウダ選手は不参加。ジャン・ピエール・ジャボイーユ選手とエマソン・フィティパルディ選手は参加取消。新たに車番27リジェ・マトラJS7/ジャン・ピエール・ジャリエ選手と車番11フェラーリ312T2/ジル・ビルニューブ選手が参加。 スタート
自由席入り口から入ると、もうあたりは人で埋まっていました。ちょうどグランドスタンドの左端あたりに出るので、そこから座れるところを探していって、1コーナーまで行く半分くらいのところに場所をとりました。
ぼくはここで初めて、大事にかかえて来たカメラに望遠レンズをセットしました。フィルムを慎重に詰めて準備完了です。でもここからでは、スタートラインは見えません。 場内アナウンスが何かを言ったとたん、それまで「バオン、バオン」と聞こえていたグリッドの方が急に「ガーッ」という切れ目のない大きな音になりました。ぼくは息をのみました。次の次の瞬間、それまでに聞いたことのない「ドガーン」というものすごく大きな音がしました。ぼくにはそれがレースのスタートだとは判らず、なにかが爆発したのかと思ったほどです。 それは、23台のF1マシンの69リッター208気筒、総計1万馬力のエンジンが、73周318キロ先のゴールを目指して一斉に雄叫びを挙げた声でした。 シャッターを切るどころか、カメラを構えることすらできないうちに、あっと言う間に23台が轟音と共にぼくの目の前を通り過ぎていきました。 ![]()
1周めを終えて、最初に戻って来たのはポールシターのマリオ・アンドレッティではなく、ジェームズ・ハントでした。続いてヨッヘン・マス、ジョディ・シェクター、ジョン・ワトソン、ハンス・スタック、ジャック・ラフィー、クレイ・レガッツオーニが既に通過しています。そのあとに、やっとマリオが来ました。でも、マリオがぼくの前を通ったのはこの2周めが最後です。奇跡のシャッターチャンスでした。
マリオ・アンドレッティのJPSmkIII、ロータス78コスワースDFVはこのあとすぐヘアピン入り口でクラッシュ、たった1周半で姿を消してしまいます。でもそれはあとから判ることで、ここからヘアピンは見えません。ですからその時には3周めの先頭集団が来たときに「あれっ、マリオがいない」。どうしたんだろうと思っていると、場内アナウンスがクラッシュを報じているというわけです。ハンス・ビンダーのサーティーズTS19と、高原敬武のKE009も巻き込まれたようでした。 アクシデント![]()
フェラーリにも富士にも慣れていないビルニューブは、6周めのストレート終端の1コーナー入り口で、前を行くロニー・ピーターソンの6輪タイレルP34/2に激突してしまいます。ビルニューブのフェラーリは逆立ちしてコース外側に吹っ飛び、観客1人とアルバイト警備員1人の命を奪ってしまいました。事故の様子は、AUTOSPORT誌の12月15日号の表紙となって残っています。
その時ぼくは、その1コーナー入り口の「手前」外側にいました。その時の様子は、今でもはっきりと覚えています。バーンと異様な音がした方向を見ると、真っ赤なフェラーリが立ち上がり、そのままコース前方外側に飛んで行きました。ぼくは、すぐには何が起きたのか判りませんでした。
そもそも富士スピードウェイは、当初インディ型のオーバルコースとして計画されたと言われています。その後、長いストレートから突っ込む30度バンクからS字、ヘアピン、高速の最終コーナーという右周り6キロの大型高速コースとして設計され、建造されました。
小規模レース用には、逆の左周りで最終コーナーに入り、S字に入る前にショートカットでストレートに戻る4キロのコースも作られていましたが、富士のビッグレースはみな右周り6キロで行われていました。 しかし、大事故が続いてとうとう30度バンクからS字は閉鎖となり、左周りショートコースの最終コーナーを新しく1コーナーにする変則的な右周りショートコースが使われるようになりました。だから、ここは本来の設計上は左周りの最終コーナーであって、右回りの1コーナーとするには少し無理があるんじゃないかと、ぼくは思っていました。そして、事故はそこで起きたのです。 260R
この先の1コーナーで死傷者が出ているなどとは知らずに、ずっとストレートで見ているだけではつまらないというだけの理由で、ぼくは場所を変えることにしました。トンネルを通ってコース内側に入り、その1コーナーから駆け下りてきたマシンがまた登ってくる260Rです。
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シェクターの不調に代わって2位に上がったのが、エンサインN177の御大クレイ・レガッツオーニです。タンベイの白と対照的なカラーリングですが、これはクレイ本人に祖国スイスのチソット時計などのスポンサーがついているからだそうです。車名のNは、総師モーリス・ナンを表しています。
デイブ・ボールドウィンのマシン設計にはかなりオーソドックスなものを感じます。このまま紅白のマルボロ・カラーに塗り分ければマクラーレンM23とたぶん見分けが付かないと思います。 昨年ラウダと一緒にフェラーリをドライブしていたレガッツオーニはさすがにベテラン健在のところを見せてハントを追ってくれましたが、こちらも44周目にDFVのブローアップで残念ながらリタイアしてしまいます。これで結局2位はフェラーリのロイテマンということになりました。 100R
そのままマシンと同じ方向に歩いて100Rまで来ました。ここは写真を撮るには絶好の場所で、ちょうどいいアングルで収めることができます。
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この日のロイテマンを表す言葉は「安定」です。ハントが先に行こうが、後ろから誰が来ようが、何の不安もなく淡々とラップを重ねていく感じでした。
ロータスをはじめ、ほとんどのマシンの名前は単なる連番ですが、フェラーリの名前には意味があります。312は3リッター12気筒、Tはトランスバーサルミッション、つまり後輪軸の前に横置きにしたトランスミッションを意味しています。T2はその2世代めです。この時代には珍しく、モノコックではなく鋼管フレームベースのマシンでした。 他のマシンのほとんどはヒューランドかツァーン・ファブリックのギアユニットを、コースに合わせた組み換えの容易さを優先させてテールエンドに置いていました。しかし、重量物はできるだけマシンの重心近くに置くことで操縦性を向上させようというマウロ・フォルギエリの設計が功を奏したのが312T系のマシンレイアウトだった、というのが歴史上の評価だろうと思います。
ロータス78は、コーリン・チャップマンとモーリス・フィリップの傑作72の後継でもあり、その72への決別でもあると思います。ロータス72は、1970年のデビュー以来、ウエッジ・シェイプやサイド・ラジエーター等でその後ほとんど事実上のスタンダードとなっていきました。しかも、ボディカラーも赤白金のゴールド・リーフから黒に金縁のジョン・プレイヤーに変りながら6年間も現役第一線で活躍しています。
あの頃から、最もその対極にいたのはフェラーリです。フェラーリは、最新の312T系でもモノコックを採用せずに鋼管スペースフレーム構造です。つまり、ロータス72どころか、新エンジンDFV自体をボディ構造材にしたロータス49でもなく、モノコック構造そのものを提案したロータス25を受け入れていないということです。 もうひとつの対極はブラバムです。ロータス72のサイド・ラジエーターには迎合せず、あくまでスポーツカー・ノーズのフロント・ラジエーターを固持しています。 ロータス78は、ウエッジ・シェイプやサイド・ラジエーターなどに関しては、それまでの72の路線を引き継いでいます。それらは有効だったということです。しかし、引き継いでいない、つまり採用されていないのが、72のインボード・フロントディスクブレーキと、トーションバー・サスペンションでした。 ロータス72は、その数々の先進性と引き換えに、当初どことなく危なっかしさを感じさせました。ぼくには、それがこのふたつに思えます。真相は判りませんが、それらの充分な熟成のまえに、ヨッヘン・リントは70年のモンツアでその代償となってしまったのではないかと思います。 忘れられない記事が載っている雑誌があります。AUTOSPORT誌70年5月号です。そのかなり後ろのほうに『ワールド・コンフィデンシャル』として「ロータスのニューF−1」「4輪駆動タイプ<72>登場!」というスクープが載っています。これがたぶん日本でロータス72が報じられた最初の記事だと思います。2ページにわたって4輪駆動でありながら前輪後輪のタイヤサイズが違うことからパワー配分が違うようだということを報じていました。ところが、当時そのページには横13センチ、縦9センチの小さな紙が挟まれていました。 「【訂正・お詫び】本誌5月号134〜135ページおよび87ページのロータス72に関する速報記事は、4輪駆動ではなく、後2輪駆動の誤りにつき訂正の上お詫びいたします。ロータス72は一見、前輪にドライブシャフトが存在するように見えますが、その後入手した確実な情報によれば、これはブレーキをインボードに配置したことによって設けられたシャフトです。」 ロータス72を参考にして、敢えてこのインボード・フロントディスクブレーキとトーションバー・サスペンションを採用せずに作られたのがマクラーレンM23です。両方のマシンとも、熟成にはエマーソン・フィッティパルディの力が大きかったこともまた事実でしょう。つまりロータス78は、構造哲学的には72よりもむしろM23に近いのではないかと、ぼくは思います。そしてその上で、78の最大の特徴、そもそもM23の時代には無かった決定的な違いがグラウンドエフェクトだろうと思うのです。 F1マシンのエアロダイナミクスには、これまで大きく2つの方向がありました。流体力学の応用による空気抵抗の削減と、抗力分解によるダウンフォースの増大です。70年代はこの二極間で最適解を模索することが続いていました。 しかし、チーム・ロータスの実験風洞の中では、それまでにないファクターが値を変えて試され、測定されていました。コーリン・チャップマンが、かつてBRMで空力を担当していたピーター・ライトを招いて、ラルフ・ベラミーと共に作ったロータス78は、グラウンドエフェクトの負圧でマシンを地面に吸い付ける第三のアプローチを加えたことを歴史に残すと思います。このサイド・ポンツーンがその実装です。たった1周半でマシンを降りたマリオ・アンドレッティに代わって、日本のファンの前でそれを実証してくれたグンナー・ニルソンに感謝して合掌。 ![]()
イタリアの猛牛ビットリオ・ブランビラのサーティーズTS19です。ブラバムと同じような三角構造シャーシを採用しています。ホンダRA272からRA301のドライバーでもあったビッグ・ジョン・サーティーズ自らの設計と言われます。右フロントカウルにダメージがあるのは、2周めのマリオのアクシデントに巻き込まれたのかも知れません。
今年サーティーズに乗るブランビラは、一年前の雨の富士ではマーチ761に乗って、星野一義のタイレル007と争っています。サーティーズTS19には高原敬武が乗っていました。その星野と高原が今年はコジマKE009に乗り、星野が乗っていたタイレル007には出ました国さん高橋国光が乗っているというのが今年の富士です。 ヘアピン入り口
ぼくは、コース沿いに歩いてヘアピンがよく見えるパドック裏に登りました。ここなら、かなり広い範囲が見渡せます。
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ずっとトップを独走しているジェームズ・ハントのマクラーレンM26がやって来ました。サーティーズTS19のビットリオ・ブランビラをラップした直後のようです。
ヘアピン内側の一番奥にはマリオ・アンドレッティのJPSロータス78が、次にに高原敬武のコジマKE009が、一番手前にハンス・ビンダーのサーティーズTS19が、それぞれ同じような形で止まっていました。 その後の報道をまとめると、こうなります。マリオがラフィーを100Rの外側から抜きにかかって接触し、マリオはそのままヘアピン内側のガードレールに横から激突して止まった。この時に左リアタイヤがコース上に転がり、後続車がそれを避けようとして混乱、ビンダーがコース中央でスピンし、そこに高原が突っ込んだ、ということらしいです。 それにしても、左側の土手の様子は異様です。金網フェンスの上に座っている人がいます。ダンロップの看板の上に座っている人もいます。そして、その奥のJAXタワーの上に登っている人もいました。なにかあったらどうするんだという感じです。ぼくは、たぶんあの1コーナー出口外側も、同じような状況だったのだろうと思いました。 ![]()
出ました国さん高橋国光のタイレル007がヘアピンを行きます。1年前のマシンでも激走につぐ激走で、ハントから2周遅れの9位でゴールします。特に最終ラップでは観客総立ちの大声援が、国さんと同じタイムで富士スピードウェイを一周しました。
あとで知ったのですが、6周め1コーナーの事故のときには、ロニー・ピーターソンとジル・ビルニューブのすぐ後ろにいたので、とっさに旧バンク入り口側のエスケープゾーンにのがれていたそうです。 国さんのタイレル007は当日までエンジンの電気系が不調でしたが、決勝直前にソレノイドのマスター・スイッチを本家チーム・タイレルのピットから直接譲ってもらって換装したら、がぜん快調になったそうです。タイレル側は担当メカニックが調整の状況まで確認に来てくれるなど、紳士的かつ協力的だったとのことです。 ヘアピン出口パドック考察
ぼくがそれまでに知っていたことと、そのあと判ったことを総合的に判断すると、たぶん次のようなことだったのではないかと思います。
ジル・ビルニューブは確かに当時期待の大型新人でした。でも、F1は3戦め、フェラーリは2戦め、富士は初めて、という状況では高い信頼性を望むのは無理だろうと思います。同じフェラーリ312T2を走らせても、ジルの予選タイム1分14秒51は、カルロス・ロイテマンの1分13秒32からでは1秒21も遅い。これは63周のレースで周回遅れになるレベル差です。 やはり、まだ慣れていないフェラーリ312T2で初めての富士の1コーナーのブレーキングポイントを探るには、時間と回数が足りなかったんだと思います。前年から予選決勝あわせて200周ちかく富士を走り込んでいるハントやアンドレッティとは経験の差は明らかです。 一方のロニー・ピーターソンはどうでしょうか。予選タイム1分14秒26は、同僚パトリック・デュパイエの1分14秒16とほとんど変わりません。でも、ロータス72時代のロニーを知っている人は、この2人がほぼ同タイムというのはマシンのせいだと思うはずです。 76年にデビューした怪物6輪車、デレック・ガードナーの意欲作タイレル・プロジェクト/34は、通常の前2輪を小径の4輪とすることで、空気抵抗の減少による直線スピードの向上と、コーナー接地性の向上、ブレーキング負荷の分散によるコーナリング性能の改善を同時に目指した異次元のマシンでした。 76年のP34はジョディ・シェクターとパトリック・デュパイエのドライブでかなり成果をあげましたが、77年には失速してしまいます。要因は、たぶんタイヤです。小径の前4輪が特殊仕様のため、グッドイヤーがあまり積極的に研究支援や製造供給してくれなくなった、との話を読んだことがあります。予選用に数ラップ持てばいいベタベタグリップのタイヤを準備したり、決勝用に300キロ持つコチコチタイヤを準備したりというのがグッドイヤーからすると優先度が下がった、ということでしょうか。当時はファイアストンが撤退し、ミシュランは参戦前、というグッドイヤー独占の時代でした。もっとウラには、FIAやFOCAなどのいわゆる上部組織がF1の拠り所である規格(フォーミュラ)を逸脱するような異端児を締め出そうとしたという、これまたもっともらしい話もあるようです。 結果的にグッドイヤーから徐々に思うようなタイヤを供給してもらえなくなってきたタイレルチームは、測定器を積んでマシンの挙動を計測し分析します。結論は、予想通りフロントのグリップ不足。シーズン中に大幅な設計変更も出来ず、結局なんとフロントのワイドトレッド化でしのぐことになりました。しかし、これでは空気抵抗削減のメリットは帳消しです。こうして77年型のP34/2はずるずるとただの重くて複雑なマシンになっていってしまったのだろうと思います。 ロニー・ピーターソンが77年はタイレルに移籍してP34に乗る、という記事を読んだ時に、ぼくは何か違和感を感じました。ロニーは、ロータス72のような軽くて速いマシンを力でねじ伏せて振り回して走り抜けるタイプのドライバーです。フロントの安定グリップでレールの上を走るような6輪車には向くのかなと思ったのを覚えています。ところが、そのフロントグリップが効かなくなってきたのでした。 ロニーも、もちろんその辺りはよくわかっていたと思います。フロントをワイドトレッドにした分だけ空気抵抗がふえてストレート・スピードは低下している。だから、後ろの車に直線後半で追い付かれてしまう。それに元々メカニズムが複雑な分だけ重い車なのに、ここへ来てフロントがグリップ不足でアンダーステア。だから、コーナー手前から早めにブレーキングしなければならない。 富士の6周め、ジル・ビルニューブはフェラーリ水平対向12気筒のフルパワーを生かし、ストレート後半で前を行くロニー・ピーターソンに追いついた。しかし、まだかわして抜ける位置ではない。でもこのまま付いて行けば、つまり最終コーナーからの立ち上がりまで付いて行けば、次のストレートでは抜けるだろう。 ジルには、前を行くロニーの状況が読めなかったのでしょう。自分ではもっと奥に設定していた1コーナーのブレーキングポイントに着く前に、目の前でロニーにブレーキングされてしまったのだろうと思います。 でも、ここまでなら事故ではあっても惨事にはなりません。ロニーもジルも、無傷で歩いてピットに戻っているのです。ところが、逆立ちで飛んで行ったジルのフェラーリ312T2は1コーナー出口外側の立ち入り禁止区域に入っていた観客と警備員を直撃し、その2人の命を奪っていました。これはやはり、レース運営側の責任を問われてもしかたがないと、ぼくは思います。 もうひとつ気になることがあります。1コーナーのイン側にはじき出されたタイレルP34のロニー・ピーターソンは、そのままストレートのイン側を歩いてピットに戻っています。これは何もおかしくありません。しかし、ジル・ビルニューブのフェラーリは、1コーナーのアウト側に飛んで行って人のいるところに落下しているのです。マシンから出たジルは、イエローフラッグが出ているとは言え他のマシンが通過している1コーナーのコースを横断して、ロニーと同じストレートのイン側を歩いて戻っています。あの時ジルは、自分のマシンの周辺を見ていないのでしょうか。 それ程の時間差もなく、ということは救助活動に加わったわけでもなく、ロニーの後に歩いて戻ってきたあの時のジルの表情からは、2名死亡9名重軽傷という大事故になったという認識はまるで無かったようです。 いろいろなことを考えるたびに、ぼくはもしモナコで同じようなことが起きたら一体どうなるんだろうと思います。起きないことを祈ります。 おわりに
なんだか空しい表彰式が終わってしまうと、なんだかレースまでが空しい終わり方をしたような気がしてしまいます。でもあとはもう帰るだけです。
ぼくは御殿場駅へ行く直行バスに並んで乗りました。立乗りになりそうだったので1台見送って座りましたが、それまでの疲れがどっと出て、すぐにがっくりと眠ってしまいました。自分の時計では一時間近く眠っていましたが、目が覚めたときに周りを見たら、駐車場全体が帰る車でぎっしりと渋滞していて、まだバスはメインゲートも出ていなかったことに驚きました。 それでもなんとか御殿場駅につき、なんとか電車を乗り継いで、なんとか帰りついたときには夜遅くになっていました。 ![]()
あの日ぼくが貰ったスターティング・グリッドを印刷したパンフレットの裏には、来年の開催案内が書かれていました。「4月16日開催、F−1世界選手権'78日本グランプリにまたどうぞ!!」
でもそれは、今回の歴史に残る惨事をきっかけに各方面からすべてが見直され、結局開催されることはありませんでした。 素晴らしい思い出、というには少し残念なことが多かったような気がします。でもぼくは、いつかまた早起きして電車に乗ってF1を見に行きたいです。おわり。
注:「タイレル」など、読み方は当時の文章のままです。
1977/10/23(sun), Fuji International Speedway, Japan Photo with Minolta SR-1, Komurar 135mm F2.3, Kodak EPL 5075 ASA400 (C)2007, TonChinKan Production |