沌珍館企画 文芸部散文課 電話が鳴った







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スーパーフルーツトマト

糖度9度+の極甘スーパーフルーツトマト

第一話


     電話が鳴った。
     最近のものは、こちらが出る前でも誰から来たかが判るようになっている。だれだろう。
     「なんだ、あいつか。いま会ってきたばかりなのに」
     自分でも今はちょっといやだったが、居留守を使うほどの相手ではなく、やはり出てみることにした。あいつにしては珍しくあわてたような声をしている。

     「いや、すまん。さっきの話だが、あの企画の組織をちょっと考え直したんだ。つまり、第三グループを管理部の下にして、代わりに第五グループからふたり...いや、図を書いたほうがいいな。ちょっと図形受信にしてくれないか」
     だったら最初から複合メールにしてくれればいいのに、と思ったら急にあいつの顔がまぶたに浮かんで、思わずふきだしてしまった。

     見てみると、組織図はたしかにあいつのいう通りだ。こっちのほうがいい。じつはさっきその話を聞いたとき、自分でも同じことを考えたのだが、とりあえずこれでいこうかと思って黙っていたのだった。
     「わかった、賛成だ。で、こっちはどうすればいい?」
     「いや、きみのところには当面の変更はないと思う。いやまてよ、新しいメンバーにきみを紹介しておく必要があるかな。いまはあいているか?」

     勝手に電話に出させておいて、あいているかもないもんだとは思ったが、とりあえず今ならいいと応えてみた。
     「そうか、じゃあこういうのは早いほうがいい。すまないが、ちょっとこちらまで戻って来てくれないか。ふたりはまだここにいるから紹介するよ」
     やれやれ、またはじまった。まったく計画性のないやつだ。ええっと、さっきのオフィスに戻るには...

     道ですれちがおうとした男が、急にびっくりしたような顔をして立ち止まった。右手を耳にあてて、ちょっと困ったような顔をしている。と思うと、なあんだという顔になり、男はゆっくりと両目のまぶたを閉じた。

     プッと笑った顔になり、ふむふむという顔になり、納得したような顔になり、あきれたような顔になり、やれやれという顔になり、と一瞬のうちにめまぐるしく表情が変わる。男は片方のまぶたを一度ひらき、すぐにまた閉じた。ちょっと考えたような顔をしたかと思うと、ゆっくり両目をひらき、左手首の時計を指でとんとんと十回ほどたたいた。見えたのはそこまでだ。

     シュゥンという音とともに、男はまるで霧のように姿を消してしまった。あたりにはかすかにオゾンのかおりがのこっているだけ。いままでの周囲のようすに変化はない。こいつもそうだったのか。

     <コミュニカティブ>といわれる新人類がふえてきたのは、本当につい最近だ。かれらはテレトークセットという小さなものを鼓膜の裏にそなえ、ハイパースクリーンという薄い表示幕をまぶたの裏に張りつけている。テレポーターという腕時計のようなものを好んで身に付けているのも特徴といえば特徴だ。

     さっきの男、あの困ったような顔からすると、たぶん行き先は太陽系のなかではないだろう... どうせ、こちらの知ったことではないが。

第二話


     電話が鳴った。
     ふと気がついて顔をあげると、すでに時計は1時半を廻っている。こんな夜中になんだろう... こんな時間にだれだろう... と、思って手元を見ると、読みかけの文庫本がそのまま握られている。どうやら読書の途中で眠りこけていたらしい。やはり疲れていたのだろうか。

     ベルはまだ鳴りやまない。こんな時間だ。間違い電話ということもある。もしそうなら、出ればなおさら不愉快になるだけだ。よくあることだ。ちょっと放っておこうか。間違い電話ならそのうちあきらめてくれるだろう。

     ところが、ベルは鳴りやんでくれない。真夜中の音だから、たぶんお隣さんにも聞こえているだろう。あした、またなにか言われるかもしれない。自分からかけるときにはベルなど何回鳴らしても平気だが、勝手に鳴らされているのをただ聞いているというのはあまりいいものではない。長いじゃないか。

     だが、電話はまだ鳴っている。そろそろ、いろいろな事態を気にし始めなくてはならない。もしや、だれかに不幸があったのではないだろうか。入院中のいとこの顔がちらりと浮かぶ。まだ女子大の2年生のはずだ。しかし、命にかかわるほどの怪我ではないと聞いている。まさかそんなことはあるまい。

     しかし、電話のベルはまだ止まない。もしかすると、仕事の緊急連絡なのかもしれない。明日の会議の資料に重大な変更があり、部長が今から担当者を集めて修正させようとしているのかもしれない。だが、だったら知らんぷりもしようというものだ。勝手にするがいい。明日の朝、今からでは間に合いません、と言うだけだ。

     電話はまだ鳴っている。あとは何だろう。だれかが揉め事を起こし、交番からの確認の電話かもしれない。なにしろこんな時間だ。いまごろしらふでいる友人は私にはいない。これは大いにありうることだ。だが、もしここで出てしまうと、あらぬ災難にかかわりあうことにもなりかねない。妻もこまるだろう。もう少し待とう。

     しかし、電話はなおも鳴っている。いったいなんなのだ。これはかなりきちんとした目的を持ってかかって来ている。こんな深夜にゴルフ会員権の勧誘が来るはずもない。いくら本国と時差があるとはいえ、英会話の教材売り込みでもないだろう。

     時差? そうか、海外出張中の部下からかも知れない。思わず椅子から立ち上がりかけたが、しかしちょっと変だ。あいつなら、いま日本は何時ごろかなどということは充分わかっているはずだ。いや、もしかすると現地でなにかのトラブルに巻き込まれ、緊急のSOSなのかもしれない。そうか、それしか考えられない。

     さすがに電話の置いてある玄関まではちょっと小走りになる。すまない。ずいぶん待たせたな。いったいどうしたんだ、と言おうと準備してから受話器を取った。だが一瞬の呼吸があって、向こうの声が先に聞こえてきた。「もしもし。もしもし。あ、もしもし」

     違う。一度も聞いたことのない声だ。同じくらいの年の男のようだ。失敗した、と思ったとたんに背筋がすーっと寒くなった。いままであれこれ考えてきた悪いケースが次々に浮かんでくる。声がでない。受話器を持った右手が震えてきた。「よ、よかった、やっと通じた。ちょ、ちょっと聞いてください」

     冗談ではない。いったいなんだ。あんたはだれだ。こんな夜中にふざけるのもいいかげんにしろ、とまで言葉が浮かぶが、からだがこわばってしまって声がでない。金縛りというのはこういうのを言うのだろうか。

     相手はそんなことにはお構いなしに、なにかを一生懸命にしゃべっている。せきを切ったように、という言葉が無機的に浮かぶが、こちらは手も足も動かない。聞こえるだけだ。むこうのことばは所々わかるが、なにしろ既にこちらの意識がかすんでしまっているので全体の話はまるでわからない。一言もこたえていない。だが、それでも向こうは構わず喋っている。まるで何かから解放されたときのようだ。

     どれくらい聞いていたのだろうか。ずいぶん長かったような気もするし、ほんの少しだったような気もする。時間の感覚も麻痺していたのだろう。思い出すこともできないような矢継ぎばやの話にただ茫然と付き合っていると、いつの間にか受話器からはツーという音しか聞こえなくなっていた。

     はっと我に帰ると、すでに自分の状態がわからない。いままでいったい何をしていたんだ。なんでこんな所にいるんだ。いまの相手はだれなんだ。どうして自分は震えているんだ。いまの話は何だったんだ。相手は何を伝えたかったんだ。どうして電話になんか出たんだ。いまはいったいいつなんだ。そもそもここはどこなんだ。これはいったいどういうことなんだ。

     聞いてみよう。話してみよう。もうだれでもいい。手当りしだいに電話をしよう。何時だろうがもうかまわん。何番にかかろうがおれは知らん。ただいま使われておりません? 結構だ、別の番号にしよう。どうせでたらめなんだ、どこへかかろうと知ったことではない。だが、話を聞いて欲しい。今の話を聞いて欲しい。

     お、呼んでいる。はやく出てくれ。呼んでいるぞ。まだ出ない。出ない。まだか。おい、はやく出てくれ。だめか。もしかすると、人のいない倉庫にでもかかっているのかもしれない。ちがいますように。まだ出ない。たのむ。おれの話を聞いてくれ。出ない。無駄かもしれない。呼んでいる。出ない。だれか、いるのなら出てくれ。だれか、おれの話を聞いてくれ。出ない。もう少し待とう。呼んでいる。出ない。

     やはりだめかと思って受話器を置こうとした時、呼び出しの音が消えてかちゃっと鳴った。だれかが取ってくれたのだ。思わず、うわずった声になった。

     「もしもし。もしもし。あ、もしもし」相手はよほどびっくりしたようで、何も言ってこない。でも、かまうもんか。「よ、よかった、やっと通じた。ちょ、ちょっと聞いてください」

第三話


     電話が鳴った。
     おっと、商売、商売。こういうのは待たせちゃいけない。
     「もしもし、もしもし... こまったわ、どうしよう... もしもし... 」
     どの電話も最初はこんなもんだ。みんなこまっている。そこへいきなり出るもんだから、たいていの相手はさらに当惑の二乗くらいになる。これはまあ、向こうの身にもなればしかたがないが。
     「お困りのようですね、お客様」
     この挨拶におどろく相手に、いつものことながらひと通りこの電話の仕組みを説明し、なおも不信がる相手にこちらの仕事をわかってもらうのは、やはりたいへんだ。しかし、ちゃんと説明すれば最後には伝わる。このひともそうだ。

     「じゃあ、いまのひととまたお話しできるわけね」
     「いや、お客様の電話はここまでです。ここで切ると、今度は私からお客様の先程の相手に自動的にかかるようになっていまして」
     「で、そちらから伝えていただけるのね」
     「はい、そうです。それが仕事ですから」
     「よかったわ、いまのひと、かわいそうなのよ。誰だか知らないけど、いきなり電話してきて、あら、電話ってふつうそうだわね、ええと、“たいへんなんです。先生、すぐに来てください。急に容体が変わってしまって、すぐ、すぐお願いします”って言ったきり切れてしまったの」
     「ところが間違い電話だから、そう言われてもこまる」
     「そうなの。でももしかすると誰かの命にかかわることだといけないと思って、どうしようかと... 」

     つまり、仕組みはこうだ。まだ話が残っているのに、相手に先に電話を切られてしまうことがよくある。その状態で、かつ“どうしよう”という声が聞こえた場合に、電話会社のなんとか交換システムが自動的に私にその切れた電話をつなぎ替えてくるのだ。その話の中身を聞き、こんどは先程までつながっていた先方の相手のほうに自動的に電話のかけ直しができれば、そのサービスは新しいビジネスになる。

     もちろん、自分では機械のなかがどうなっていて、どうしてそんなことができるのかなんてのは、まったくわからない。そこで、技術的にできるのかどうかを電話会社に確認し、違法な営業でないかを弁護士に確認し、法人税の扱いについては税務署に確認し、同業他社がいないかどうかを商工会議所にも確認したうえで、準備万端この仕事をはじめたというわけだ。すべりだしはなかなか上々というところか。

     仕事は迅速、正確、そして丁寧だ。ただいまのお電話はお医者さまにではなくふつうの家にかかっていました、すぐに正しい番号におかけ直しください、先方も他人事とはいえご心配なされていました、うんぬん、ということを手際よく伝えて受話器を置いたとたん、またもや電話が鳴った。

     「もしもし、もしもし... こまったわ、どうしよう... もしもし... 」
     「お困りのようですね、お客様」
     「えっ... 良かった、切れてないのね。もしもし、いまのお客様ですか」
     「いや、切れてはいませんが、残念ながらいまのかたではありません。こちらは..」
     ひと通りサービス内容の説明をして、相手のいままでの話をきいてみると、これもよくある筋書きだ。食品会社のお客様担当窓口で、話が途中までだったらしい。

     「ふだんあんまり質問されることのない成分についてのお問い合わせでしたので、ちょっと調べるのに時間がかかってしまったのです。どこかで一度、ただいま調べておりますので、とでも言っておけばよかったのですが... 」
     「調べがついて電話にでたら、もう切れていた」
     「いえ、そこまではお待ちいただけたのです。お待たせいたしまして、と出たとたんに、なにをモタモタしてるんだって切られてしまって... 」
     こういう電話はどちらかというと得意なほうだ。伝えるべき内容がはっきりしているし、なにしろ料金面でも確実なのがうれしい。自然と復唱する声にも力がはいる。

     「と、お伝えすれば良いわけですね」
     「はい。でも番号がわかるのでしたら私どものほうから直接電話いたしますが... 」
     「いや、それでは私の商売があがったりです。どちらかからサービス料を戴いて、ふつうだったら二度と伝わらなかったかもしれないメッセージをきちんとお伝えする営業をしているのです」
     「そうですね、でも助かります。会社のイメージにかかわることですから... 」
     「ということで、この件の料金はそちらの電話番号につけてよろしいのでしょうか」
     「ええ、もちろんです。まさかお客様負担というわけにはいきませんので... 」

     わざわざ受話器を置くこともないので鉛筆でフックをかっちゃんと押すと、今度はその怒り屋さんに電話がかかる。ここでは社長が部下の不手際を丁重に詫びるという演技で、しかも詳細なデータを澱みなく回答してみせたところ、相手はおおいに恐縮してこれからはおたくのハムしか買いませんとまで言ってくれた。なにしろ、湯気のさめないうちに企業のトップがかけ直してきたのだから無理もない。どうやって、なんて気にも留めていない感じだ。もちろん、気にしてはもらいたくないのだが。

     この仕事はほとんどの場合、感謝されている。電話だといかに話の途切れが多いかということが実感としてわかる。意思の伝達なんてそんなもんかもしれない、などど考えていると、また電話が鳴った。

     「もしもし、もしもし... こまったな、どうしよう... もしもし... 」
     「お困りのようですね、お客様」
     「な、なに。誰だきみは。ははあ、さては」
     「いやいや、ちょ、ちょっと待ってください。いまの電話とは関係ありません」
     「なにが関係ないだ。関係ないやつがどうして電話にでるんだ」
     「ですからご説明申しあげます。こちらは電話時代の新しいサービスをご提供... 」
     「ぶつぶつ言うな。そうか、誰だか知らんが、そうなのか、あいつはおまえと一緒に映画に行くんだな。おい、そこにいるんならすぐに彼女を出せ。なにが急に用事ができただ。見え透いた嘘をつかせやがって。おい、もう一度彼女を出せ」
     「ちがうんです。この電話はちがうんです。この電話はさっきいったん切れて... 」
     「ふん、ごまかそうたって無駄だ。切れた電話がつながるか。電話のわきに男がいたなんて、気が付かないおれもバカだったよ。おい、はやく彼女を出せ。こう見えても喧嘩には自信があるぜ」
     「いや、い、いません。ここにはそんなひと、いません、ここは... 」

     たしかにこれは正しい。ここは先進個人企業のオフィスなのだから当然だ。だが、相手はこちらがすでにその彼女をどこかへ逃がしたあとだと思ったらしい。なにしろいま拾ったのはお互いに相手を知っているものどうしの電話なのだ。
     「よしわかった。ちゃんと話をつけよう。いまからそっちへ行くから、おまえだけでも待っていろ。逃げたりしたらわかっているだろうな、いいな」

     ちょっとこちらの話も聞い、まで言ったところで、電話は切れてしまったかのようだ。これはたいへんなことになった。あの男がここにくる可能性はまずないと思う。しかし、その彼女とやらはたぶんひどいめにあうだろう。または、何かでこのサービスのせいだと突き止められたりしたら、やっぱり電話会社はここをおしえてしまうかもしれない。それにしても、そうせっかちに切らなくたっていいじゃないか。
     「もしもし、もしもし... こまったな、どうしよう... もしもし... 」

     その時だった。すぐにそれとわかる中年の女の声が、まだ握ったままの受話器から聞こえてきたのだ。
     「お困りのようですね、お客様」

第四話


     電話が鳴った。
     なんだよ、こんな遅く。いると思ってるのかよ、この野郎。

     「はい、経理課です... え? はあ。いや、そうですけど、すみませんが明日の朝にしてくれませんかぁ。その関係の担当はもうみんな帰っちゃいまして... ええ、ちょっとわかんないんですよ... そうですか、よろしくお願いします、すんません」

     まったく我ながらなさけない。こんな時間に会社に戻るんじゃなかった。だいたいあいつがいけないんだ。せっかくいい気持ちで酒も肴も盛り上がっているときに仕事の話なんかしやがって。おかげで明日の朝の伝票が妙に気になり、ヤツと別れたあとけっきょく会社に戻って来てしまった。しかたがない。気が小さいのは昔からだ。悪い同僚を持ったことのほうを恨むべきだろう。

     だが、すでにかなり酔っているので集計には自信がない。あれ、合計はここでいいんだっけ。小計と中計がこことここで、だめだ、数字がだぶって見える。合っているものと信じて伝票の枚数をかぞえ始めたが、だんだんと手元も怪しくなって来たようだ。馬鹿野郎、何年この仕事をやっていると思ってい... と思ったら、またもや突然電話が鳴った。
     なにしろ酔っているのでよくはわからないが、かなりの至近距離だ。どこだろう、と思って席を立ってみるとすぐに分かった。やはりものごとは三次元で考えるべきだ、などと普段なら絶対に思いつきそうもないことをもごもごと言いながら電話の音の前まで行くと、そこはもう隣の部の席だ。

     「あ、総務課のかたですか。もしもし、あ、経理さん。ま、どちらでもよろし。いやあ、よかった。助かりますわ。わたし技術課のもんですが、すんまへん、隣の技術課の伝言板に“朝いちで必ず!!”いうメモが貼ってありますやろ。あれ、剥がしといてくれまへんか。いやいや、だから説明しとるんですわ。いまお客さんから電話ありましてな、うまくいきよったそうで、手配の必要のうなったらしい。いやあ、よかったわ、たいしたことのうて。すんまへん、よろしゅうたのんますぅ」
     なにを言ってやがる。伝言板なんてどこにもないじゃないか。何を剥がせというんだ、いい加減にしろい、うーいっくぅ、ひっく。

     いかん。だんだん足元がふらついてきた。戻るべき自分の席がすでにわからん。どれもみんな同じ机に見える... というところでまたもや電話が鳴った。
     今度も少し遠い感じの音だ。いったい何時だと思っているんだ、もう誰もいるはずないんだから、そんな遠くへ電話するなよな、と思いながら音のするほうへ行ってみると、案の定、やはりそこはもう営業部ではないか。うるさいやつばかりいるところだ。電話には出てやるから、ありがたく思えよ、誰だか知らんが。

     「もしもし? いやあ、良かった、助かります。すみません、課長の席にちょっとメモをお願いしたいんですが。いいですか、はい。昨日の件、成約いたしました。ありがとうございます、って書いといてください、え? ええ、わかります、それだけで。じゃ、よろしく」
     なにがよろしくなもんか。そんなことなら、あしたの朝だっていいじゃないか。一体いま何時だと思っていやがるんだ。冗談も休み休み言え、まったく。切るぞ。

     と力ずくで切ってみると、すぐまた遠くで電話が鳴っている。
     おなじフロアとはいえ、もう歩いて行くのもおっくうだ。どうなっとるんだ。いったいどこだ。さっきからあれやこれやと電話で歩かされっぱなしで、自分の仕事なんかできるわけがない。ほとんど部屋の出口に近いところだな。ということは、ええっと何課だ、ここは...しかし真っ暗ではないか。たしかさっきまでは明るかったはずだが...

     もういいだろう、おれは夜警の電話番ではないのだ、勘弁してくれ。もちろん、ビルの管理人でもないのだ、勘弁してくれ。それに、当直の見まわり人でもないのだ、勘弁してくれ。だが、それでも電話は鳴っている。
     今度はどこだ。この野郎、どこなんだ。おっと、椅子なんて倒れたってかまうことはない。おい、どこだよ。どこで鳴っているんだよ。うるせえな。どこでなっていやがるんだ。これか。ちがうな。こっちか。ちがうな。暗くてどうもよくわからん。おお、そこか。ついに見つけたぞ。待っていろよ。いま行くぞ。出てやるからな、恩に着ろよ... どこか窓でもあいているのか。ちょっと寒いな...

     駅前の男が煙草をくわえたままあごで向こうを指した。
     「な、面白いだろ。公衆電話の番号さえ道順に調べておけば、ここからガードをくぐって商店街のはずれまで、つぶれそうな酔っぱらいをよたよた歩かすのなんて簡単なもんだ。ゲームだよ。15分? ちょっとうまくいきすぎたか」

第五話


     電話が鳴った。
     外線だから、もちろん珠洲子ちゃん経由だ。うちの会社は外からかかってくる電話は必ず交換手の珠洲子ちゃんからつながれるようになっている。いきなり不作法な男がお客様の電話にでることのないように、というのが表向きの理由だが、なんのかんのと言っても珠洲子ちゃんとお話ができるのが、みんなの、というか俺たち中年男の楽しみでもあるのだ。

     「... とおっしゃっているので、こちらのご担当と思います。おつなぎします。よろしいでしょうか」
     ええ、よろしいですよ。いつも奇麗な声ですね。銀の鈴をふるような声、というので誰からともなく鈴子ちゃんという呼び名がついていたのだが、金沢から転勤してきた男が「能登半島の珠洲がいい」というので、これまたいつの間にか珠洲子になっているのだ。
     どうせスズコで同じじゃないか、という奴には彼女のファンの資格はない。俺たちの珠洲子ちゃんはすべてにおいて美しくなくてはならんのだ。ありふれた本名などよりこちらのほうがずっといい。

     「ええ、はい、そうです。ではまた。はい、有り難うございます。あ、社長さんおられましたら、ぜひよろしくお伝えください、はい、それでは」
     と言って電話を切ると、今度はベルは鳴らずにメッセージランプがともる。やっぱり来た。珠洲子ちゃんだ。
     「ご苦労さまです。いまのお話、まとまるといいですね。ええ、応援します。でも、ひとつだけご注意なさってください。社長さんおられましたら、というのは先方に対して失礼になります。おる、は自分たちの方を指す言葉ですから、社長さんいらっしゃいましたら、が本当の使い方です。ごめんなさいね」
     (いいえ、ごめんなさいなもんですか。いつもありがとう、感謝してるよ)

     このサービスは、どうも珠洲子ちゃん自身の発案らしい。仕事がら、聞こうと思えば聞けるらしいので、その代わりになにか俺たち営業の役に立つことはないかと考えて自分から始めたらしいのだ。敬語の間違いや、うろ覚えで使ってしまった言い回しの間違い、さらには伝えてしまった部長の予定の間違いなど、あとでどれだけ助かったか判らない。最初は聞かれていると思うとなんか落ち着かなかったが、最近では逆に安心して相手と話ができるようになった。

     とは言え、話の最中にいきなり割り込んでくるような無粋なまねはしないから、相手には珠洲子ちゃんはただの交換手としか判らない。だが実際には、ほとんど秘書の役目までしているといってもいいだろう。少なくとも俺にはそうだ。
     もちろん、嫌がっている奴もいる。しらんぷりする奴もいるらしい。まあ、ひとそれぞれだから別に構わないが、俺はいまでは珠洲子ちゃんを頼りにしている。彼女の方でもそういうのはわかるはずだ。たまには仕事以外の話もしてくれる。

     ところが、最近どうも珠洲子ちゃんが疲れているようだ、という噂を聞くようになった。みんな、表だっては言わないが、何かのついでに彼女の話になると、どうもそうらしい。少し元気がない、声にツヤがない、チェックを返してこない等々、みんな同じような感じをもっているようだ。
     だが、どうもピンと来ない。俺はそうは思わない。最近だって元気だし、あいかわらず奇麗な声だし、いつものように俺の間違いを指摘してくれる。疲れぎみだなんて、そんなはずはないのだが。

     ということは、俺はひょっとしたら珠洲子ちゃんに好かれているのではあるまいか。彼女は、せめて俺にだけは、と思ってしっかりしたところを見せているのではあるまいか。身も心もボロクズのようなこんな男に、一体どんな魅力があるのかは知らんが、そう思うとまんざらでもないような気がしてくる。
     しかし... まあいいか。いまは期末でそれどころではない。期が明けたらまたちょっと考えてみよう、と思ったとたんに、いきなり電話のメッセージランプがついた。珠洲子ちゃんだ。もちん俺はすぐに受話器を取った。

     「すみません、お仕事中に。すぐに切ります。あの、あさっての日曜日、休日出勤なさいませんか」
     「え、いや... え、まあ、きみに頼まれると... でも、なにかあるのかい」
     「そのときにおはなしします。じゃあ、来ていただけるんですね」
     「いいけど、でもきみは... 」
     「ありがとうございます。ではお待ちしております」
     いつものとおり、ハキハキした仕事用の声だ。だが、休みの日にわざわざ会社にまで来いとは、いったいどんな用事だろう。

     道ならぬ恋の打ち明けだろうか。これには期待したいところだが、まああまり有りそうもない。元々俺はそんなにモテる男ではないのだ。ありえない。
     とすると、仕事上でなにか大事な秘密を知ってしまい、誰かに狙われていて... これはありそうだ。職務上おおいに考えられる。そこで、ひごろ頼りにしている俺を、ということだろう。いや、そんなスパイ映画みたいなことがそうそうあるものではない。
     これはもっと大事な、ううん、わからん。要は他人の目と耳を避けたい、ということなのだろうから、つまりは待ち合わせ場所にすぎないのかもしれない。

     不安な気持ちのまま土曜日を過ごし、約束の日曜日朝9時にちょっと遅れて会社の席についてみると、すでにメッセージランプがともっている。すぐに取ると、珠洲子ちゃんがでた。さっきからずっと待っていたらしい。
     「よかった、来ていただけて。こんなにうれしいの、はじめてです」
     今までにないような弾んだ声だ。たぶん、待っているあいだじゅう、暗くなっていたに違いない。悪かった。で、用ってなんだい。

     「わたし、もう明日からここにいないんです... 」
     「えっ、なんだって。ど、どういうこと」
     「今日がお勤めの最後の日なんです。だから、そっとさよならを言おうと... 」
     俺は一瞬信じられなかったが、すぐに察しがついた。中年男の悲しいカンというやつだ。

     「そうか、おめでとう。相手は社内の男かい」
     「違うんです... ごめんなさい。違うの... 定年なんです」
     なんだって。どういうことだ。だってきみはまだ、といいかけて、俺は彼女の年などいままで考えたこともなかったことに気がついた。だが、確かに新入社員として数年前に来たばかりのはずだ。俺はその挨拶の電話で、なんて奇麗な声のひとだろうと思ったのを今でも覚えている。
     「交換のお仕事って、すごく疲れるんです。だからとても続かないの。私も本当の事をいうと、5年契約で入ったんです。この仕事、若さも大切な条件だし... 」

     なんということだ。言われてみれば確かにそうかもしれない。だが俺には、今まで毎日の仕事を支えてきてくれた珠洲子ちゃんが、明日からいなくなってしまうことのほうがよっぽど重大だ。どうすればいいんだ。そしてなによりも、いま俺はどうすればいいんだ。

     「なんて言ったらいいのかわからないよ、あまりに突然で」
     「でも、挨拶してから辞めていったひとってあまりいないみたいなんです... だから私、いちばんお世話になったかたに、最後の日にぜひご挨拶しようと... 」
     彼女はすでに涙声だ。女に泣かれて困らない男というのがいたら会ってみたいものだ。いちばんお世話になったかた、と言われると俺も、いや... とか、でも...としか言えなくなってしまう。俺たちは受話器を握りあったまま、それぞれの部屋で下を向いていたに違いない。

     だが、さすがは珠洲子ちゃんだ。きっと気をひきしめ、再び普段の声になった。
     「これから後任の方と引き継ぎをするところです。12時に終わりますから、通用門のところで見送って下さいませんか。課長が車で送ってくれるそうです。ひとりで手を振ってくださいね。思い出、大事にします」

     わかった。だが、困った。おれは珠洲子ちゃんの声は知っていても、顔はしらないのだ。たぶんほかのみんなも同じではないか。会社の方針で、交換のような人気部署には虫がつかないよう、かなり厳重な隔離がなされている。だからこそ、珠洲子ちゃんのような人気者がでるのだろうが。見送ってください、と言ったのは、お別れに私の素顔を見てください、という意味なのだろう。
     「それじゃ、長い間たいへんお世話になりました。ありがとうございました。これからもお仕事がんばって下さい。さようなら」

     最後のさようならはずっと耳に残っている。彼女の声だからこそ、残っているのだ。人影のない日曜日の通用門で、俺はまだ見ぬ珠洲子ちゃんの姿を待っていた。交換手だ、秘書だとは言っていたが、だぶん電話でしかしらない恋人だったのだろう。おそらく、俺は彼女の声を、彼女を、愛していたのだ。

     12時を少し過ぎたころ、大きな旧型の電子交換システムを載せたリース会社のトレーラーが俺の前をゆっくりと通り過ぎて行った。

第六話


     電話が鳴った。
     おや珍しい。ここひとつきほど電話なんて来なかったのに。はやる気持ちをぐっとおさえて出てみると、若い女の声がした。
     「マテルさんのお宅でしょうか」
     「はい、そうですが」
     「こちらは<リビングクラブ>のサービスデスクでございますが、オー・ド・マテルさんでいらっしゃいますか」

     おっと、旦那さまへの電話だ。いつものクセで、はい、ちょっとお待ち下さい、と言いかけて思いとどまった。旦那さまはお出かけだ。行き先は聞いていない。というよりも、お出かけのところを見ていないのだ。留守番としては失格だが。
     「いや、旦那さまはちょっと外出されておりまして... 」
     相手はすこしのあいだ考えたようだが、意外にきっぱりと言ってきた。
     「クラブの会費が未納になっております。明日までにお振込くださいますよう、オー・ド・マテルさんにお伝えください」
     女はそれだけ言うと、こちらに弁解の余地も与えずにさっさと切ってしまった。

     明日までに、と言われても、肝心の旦那さまがいないんだからちょっと無理だ。だれにも相談できないまま1日が過ぎ、また電話が鳴った。

     「マテルさんのお宅でしょうか」
     「はい、そうですが」
     「こちらは<リビングクラブ>のサービスデスクでございますが、オー・ド・マテルさんでいらっしゃいますか」
     「いや、旦那さまはちょっとご旅行に出られておりまして... 」
     昨日とは少し違うが、これも留守番の役目というものだ。しかし、そんなことはおかまいなしに、相手の女は昨日とまったく同じことを同じように言った。
     「クラブの会費が未納になっております。明日までにお振込くださいますよう、オー・ド・マテルさんにお伝えください」ぷつん

     お伝えください、と言われても、こちらの旦那さまがいないんだから伝えようがない。いい加減どうでもよくなって気にせずに1日が過ぎ、また電話が鳴った。

     「マテルさんのお宅でしょうか」
     「はい、そうですが」
     「こちらは<リビングクラブ>のサービスデスクでございますが、オー・ド・マテルさんでいらっしゃいますか」
     「いや、旦那さまはしばらくご入院されておりまして... 」
     もちろん、入院などではないのだが、これも留守番の定石だ。しかし、やっぱり相手の言うことは同じだった。
     「クラブの会費が未納になっております。明日までにお振込くださいますよう、オー・ド・マテルさんにお伝えください」ぷつん

     まったく、どうすればいいんだ。旦那さまはいつまで待っても戻ってこないのだ。もう次のご指示はいただけないのかもしれない。どうせあの会費請求の電話だってコンピューターが未納分を調べてあちらこちらへかけてきているに違いない。
     そうか、きっとあいつのご主人もいなくなってしまったんだな。同じ機械どうしで話をあわせて、このさい無駄な電話はやめさせようか。ついでに仲良くなったりして。

     旦那さまが姿を見せないのは先月の、ちょうどなにやら中性子の雨とかがいちどに降った日あたりからだ。あれ以来、世の中は静まりかえっている。そろそろ俺たちだけでなんとかしないと...

第七話


     電話が鳴った。
     もちろん、ぼくは手をのばす。なぜって、今は仕事中だからだ。

     そういえば、最初から「はい、もしもし」といって受けた電話にでるやつがいるが、これはいただけない。なぜって、これだと「あれ、もしもし」「はい」「業務課さんですか」「はい」という受け答えになって、あまりにも効率が悪いからだ。だから本当は、始めに「はい、業務課です」と受けたこちらからいうべきだろう。

     てなことを一瞬のうちに考えて、よし、この話題は明日の朝礼に使えるな、とばかりひとりで喜んでいたら、いつまでたっても受話器からは何の音も聞こえない。おかしいな。確かにいま鳴ったから取ったのに。と思ったところで理由がわかった。こちらからまだ何も言ってなかったのだ。相手は受けたこっちが何か言うのを待っていたのだろう。

     「はい、業務課です」
     すると、ぷつんという音がして、あとはツーという音が聞こえるだけになった。どういうことだ。ぼくにはわからない。なぜって、こんなことはじめてだからだ。

     へんだなあ、と思いながらもいつのまにかそんなことも忘れていたら、また電話が鳴った。どうせさっきと同じだろうと思ったが、仕事だからとりあえず出てみた。

     「はい、業務課です」
     「あ、もしもし。業務課さんですか」
     これだ。業務課だと言っているではないか。あなたの耳はパンの耳か。

     「はい、業務課です」(二度めだぞ)
     「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが、よろしいでしょうか」
     「はい」(仕事ですからね)
     「じつはうちの課のお客さんで、こんど家を新築された方がいらっしゃいまして」
     「はい」(ぼくには関係なさそうだ)
     「で、その時の融資関連で当社の常務になにか大変お世話になったそうなんです」
     「はい」(そういう人もいるのね)
     「業務課さんにはなんですが、どうもかなり色を付けていただいたようでして」
     「はい」(まあ、中身によっては聞かなかったことにします)
     「それでぜひお礼にとご自宅まで伺ったそうなんです」
     「はい」(そんなもんですかね)
     「ところが、奥様もお留守らしくて」
     「はあ」(まさか行き先を知りませんかと言うんじゃないでしょうね)
     「で、会社に常務をたずねるのもお仕事の邪魔ではと、さっき電話がありまして」
     「はい」(だからなんなんですか)
     「そちら業務課の山田さんが、常務と遠いご親戚だそうなんです」
     「はい」(へえ、そうですか)
     「なんでも常務の姪の義理のお兄様の妹さんのご主人様のいとこさんとかで」
     「はい」(ほとんど他人ですね)
     「入社の時にはやはり別枠だったんでしょうね」
     「はあ」(まあ、そうかもしれませんが)
     「あ、そういうお話はご存じないですか」
     「はい」(しりませんよ)
     「そうですか... ところで、その山田さん、いらっしゃいますか」

     冗談じゃないですよ。だったら最初からそう言ってくれればそれだけで済んだのに。
     「山田は今日は休みです」
     こちらの気分を察したらしく、相手は形だけの詫びを言って切ってしまったようだ。

     まったくどうなっとるんだ。電話のかけかたもよく知らないやつが多すぎるんじゃないだろうか。ふだんのおしゃべりとビジネスの会話は違うのだ。
     結論は先に。状況をそのあと。なぜって、そうすれば聞くほうも理解しやすいからだ。いったい何の話だろう、と延々付き合っているのくらい無意味な時間はないと思う。

     こういう電話のあとはしばらく不愉快になる。ぼくはネクタイを荒っぽく締め直した。なぜって、これが落ち着かないときのぼくのくせだからだ。
     落ち着こう。と思っていると、またもや電話が鳴った。しばらくじっと見ていたが、電話のほうは見つめられることには慣れていないのだろう。何かをせがむようにまだ鳴っている。

     今度はまともなやつだろうな、と思ってぼくは電話に手を延ばす。ところが今回は受話器にさわっただけでベルが鳴りやんでしまった。まだ取っていないのにおかしいな、と思っていると、電話はまたすぐに鳴りだした。きっと番号を間違えたと勘違いしてまたかけて来たのだろう。心なしか音もすこし大きく聞こえる。

     どれ、と思って手をのばしたが、今度も取るまえにベルが鳴りやんでしまった。ちょっと待て。これはいたずら電話か。いくらなんでも会社の内線でいたずら電話をするやつはいないだろう。とすると電話機の故障か。これもそう簡単には考えられない。電話なんて、最近は滅多にこわれることはないんだ。

     となると、課長がどこか別のところから我々の電話対応をチェックしているのだろうか。いやいや、そんな上司ではない。単純に電話のベルのコードかなんかが接触不良にでもなっていて... いや、さっきの話が妙に気になるな。常務は電話をまたせると特にうるさいひとらしいから、もしかするとあれは...

     たかが電話のベルごときとは思いつつもあれこれと真剣に考えを巡らしていると、まったく突然に横腹にどーんとした衝撃を感じた。
     「遅れるわよっ。さっきから目覚まし時計を何度も叩いてなにを言ってるのっ」

第八話


     電話が鳴った。
     一瞬、部屋の空気が緊張する。美佐子は思わず受話器に手を伸ばしかけたが、たちまち西村のがっしりした腕に押さえられてしまった。
     「奥さん、落ち着いてください。落ち着いて」
     平凡な応接間に不相応な人数の男たちがつくる沈黙に、電話のベルだけが何度も響く。

     レシーバーをあてていた男が黙ってうなづいたのを確認すると、西村は美佐子に目で合図してから、言い忘れたことのように念を押した。
     「なるべく、引き延ばしてください。できるだけ。それから、怒らせないように」

     美佐子は一度深く息をしてから、受話器を取った。
     「吉川でございます。... もしもし、もしもし」
     「オレだよ。なんですぐに出ねえんだ。ちゃんと電話の前にいろって言ったろうが」
     「も、申し訳ありません。ちょっと立っておりまして... 」
     「サツには連絡してねえだろうな。そんなことするとガキの命はねえぞ」
     「は、はい。もちろんです」

     受話器を持った美佐子の細い腕はすでに小刻みに震えている。
     「カネはどうだ。金曜の夕方までに5千万だ。わかってるな」
     「は、はい、いま主人が戻ってまいりますので、そのうえでなんとか必ず」
     「ふん、ダンナか。まあ、子供が可愛くねえ親はいねえだろうがな」
     「めぐみを、電話に出してください! めぐみを」

     だが、そこまでで電話は切れた。美佐子はがっくりと肩を落として、そのまま床に座り込んでしまった。映画などでは切れたあとも「もしもし!もしもし!」と言って大騒ぎする場面がよくあるが、現実はもっと暗く、冷たい。一方的に電話の切れるプチッという音は、それを望んではいないものを絶望させてしまうくらい簡単だ。

     「警部、だめです。相当な長距離のようです」
     西村はただうなづいただけだが、ということは共犯がいない限り、この家近辺の動きにそれほど気をつかうことはないかも知れん、と少しずつ方針を固めていった。
     「奥さん、やつはあまり先をいそいでいないようです。この分だと、次の電話がいつくるか。もしかすると、今日はもうこないかもしれません」
     ハンカチをぎゅっと握りしめ、ただ首を振るだけの美佐子の肩に手を置いて、西村はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
     「奥さん。これからです。しっかりしてください」

     西村は自分の煙草を出して一本くわえたが、この部屋にはライターも灰皿もないのに気がつくと、あきらめたようにそのまま下を向いた。−こりゃあ、ひょっとすると長期戦だな...その時、だれもがまさかと思うころあいで、また電話が鳴った。全員が振り向く。

     ばたばたと持ち場につく担当たち。だが西村が制する間もなく、美佐子は反射的に受話器を取ってしまっていた。レシーバーの男の顔がゆがむ。西村は火のついていない煙草を思わず口元で噛みつぶした。−くそぅ、やるじゃないか...

     美佐子は座りこんだまま、真っ青な顔をして受話器を両手でつかんでいる。
     「もしもし!もしもし!」
     「あんた、サツを呼んだな。家の前にマッポがいるそうじゃないか、おい」
     「い、いいえ、違います、そんなことはありません」
     「ふざけんじゃねえよ。カネが惜しいのか。ガキがどうなってもいいのか。え?」
     「いや、そんな...」
     「全部わかるんだよ、こっちからは。つまんない小細工はやめなよ」

     西村は逆探知担当にどうなんだと目で合図したが、相手はゆっくりと首を横に振った。録音担当は息を殺してテープとメーターを交互に見つめている。
     「ちがいます、絶対にそんなことは...」
     「いいから早くカネをつくれよ。余計なこと考えねえでな」
     「めぐみは、めぐみは無事なんでしょうね?」
     「ああ、ねちまったようだが、息はしてるぜ」

     美佐子の目は焦点を失って天井を仰いだ。だが一瞬の間を突くようにして、事態は急転してしまった。
     「おい、やっぱりこの電話は盗聴されてるようだな。サツがいるのか」
     「い、いいえ、そんなことは...」
     「わかるんだよ、こっちからはな」

     どうやらわかってしまったようだ。もはや策はない。美佐子は泣きだす直前の顔をして西村を見上げた。西村は腕を組んで立ったまま、目をつぶっている。
     「だせよ」
     「えっ?」
     「サツを出せって言ってんだよ」
     「で、電話にですか」
     「つべこべ言わねえでだせってんだよ。ガキがどうなってもいいのか」

     美佐子は観念した様子で、がたがた震える手で西村に受話器を渡した。西村にしてはあまり好ましい展開ではないだろうが、こうなっては仕方がない。ごく短いやりとりのあと、相手が一方的にかなり長く話し始めたようだ。具体的な要求だろうか。テープのまわるかすかな音以外、部屋のなかはひっそりとすべてが西村に集中している。引き延ばしも考え、西村は「うん」とか「ああ」とかしか言ってはいない。

     突然、それまで穏やかさを装っていた西村の顔が紅潮した。腕も震えている。
     「馬鹿野郎!お客様を何だと思ってんだ。『被害者体験サービス株式会社』は、こういうお客様のご満足が第一なんだ。日当は別だ。おまえなんか、今日限りクビだ!」

第九話


     電話が鳴った。
     エヌ氏は仕事用の穏やかな態度で受話器を取る。
     「はい、こちら<ひと想ひ相談室>でございます」
     「もしもし? あの、片思いの悩みを聞いてもらうのはここでいいんですか」
     「はい、そうでございます。お客さまは今日が初めてでしょうか?」

     そうだという返事を聞くと、エヌ氏は大判のシステム手帳を手元に引き寄せ、新規受付用リフィルのページを開いた。最近は1日に4〜5枚使っている。
     「では、リラックスして、なんでもいいですから、どこからでも話してみてください」
     「ええと、その前に、料金はどうなっているんでしょうか」
     「費用についてはご心配ありません。ここは政府関連の事業団が出資しているので、一般の利用者のかたは無料でございます」
     「そうですか。じゃあ、何から言えばいいですか」
     「自分のこと、相手のこと、まわりのこと。言いたくないところは、もちろん結構です。とりあえず、お電話のきっかけはどんなことでしょうか?」
     「じつは、なかなか彼女に言いだせなくて、どうしようかと... 」

     こうして、ぎくしゃくしながらも話はなんとなく進んでいく。一件の電話は、短くても10分、長いときには2〜3時間というケースもたまにはある。エヌ氏は相談にのりながら、リフィルの各所にあるいろんなチェックポイントに印を付けたり、書き込んだりしている。こうしてマークしたところが、つぎの相談のときの参考になったり、全体の傾向を見たりするのに随分役に立つのだ。

     ひととおり相談にのると、エヌ氏は最後にこう切り出した。
     「ずいぶん気がらくになったでしょう。これですこしは別の見方もできるようになったかもしれません。しばらくしたら、また必ずお電話ください」
     心持ち少し明るくなったような声の返事を聞きながら、エヌ氏は今書き込んだリフィルをデータバンクのセクションに移し替えた。ここは、いまではエヌ氏の貴重な財産になっている。しかし、エヌ氏はこのなかの誰ひとりとして直接は知らない。そのことにかすかなむなしさを覚えることもあるが、いまではそれも仕事だと割り切ってしまうことにしている。

     小説や映画の話を参考に紹介してやると、納得してくれる相手も多い。かつてはサガンやヘッセなどからヒントを得ていたこともあったが、最近はぐっと趣向をかえて源氏物語のなかに意外な話題を発見したりしている。なにしろ、電話での応対が仕事。読書の時間はたっぷりあるのだ。次は何を読もうか。

     ページをめくる音だけの静けさを破るように、また電話が鳴った。
     「もしもし、ええと、ええと... 」
     「はい、<ひと想ひ相談室>でございます」
     「そうそう、あの、片思いの相談なんですけど、いいんでしょうか」
     「はい、そのための相談室でございます。安心してなんでもどうぞ」
     「じつは、なかなか彼女に言いだせなくて、どうしようかと... 」
     「はいはい。そういうかたは沢山いらっしゃいます。大丈夫です。もうすこし続けてくださいませんか」

     続けて聞いても、ほとんどの場合はみんな似たようなケースだ。答えるほうもそう違うものが有るわけではない。エヌ氏は過去の対応での蓄積から、自分のシステム手帳にはパターン別の対応事例集をとじこんでいる。大抵の場合にはその程度で相手はほぼ納得してしまうようだ。
     なにしろ、ここに電話をかけてくるというのは、何かしか精神的に余裕のない状態に陥っている人間が多い。話を聞いてもらった、というだけで安心してしまう場合がほとんどのようだ。
     「よかった。そうですか。そんなに気にすることないんですね」
     「そうです。どうですか? すこしはすっきりしましたか」
     「ええ、ほんとうに、どうもありがとうございました」
     お礼を言われるとだれでもわるい気はしない。でも、これはいつものことだ。

     さっきまで隣りで電話を受けていた同僚が早番で帰ってしまうと、滅多に独りごとを言わないエヌ氏もとうとうぽつんとつぶやいた。
     「どの電話もみんな同じだなあ。たまには変わったのが来ないかなあ。もう、今日の仕事は次の電話でおしまいにしようか」
     言い終わったところで、望み通りに電話が鳴ったのにはエヌ氏も少々驚いた。

     「もしもし、<ひと想ひ相談室>ですか?」
     「はい、<ひと想ひ相談室>でございます。人間関係の悩みごと、ささいな行き違い、ひと恋しさなどの相談に幅広くご利用いただいております」
     ところが相手はエヌ氏のことばを最後まで聞くまえに話し出して来た。
     「聞いてください。ぼくはもう、くやしくて、くやしくて... 」
     「おやおや、どうなさいました。どうせ無料電話ですから、まずは落ち着いて」
     と言いながら、エヌ氏は心のなかで(たまには変わったのがきたぞ)と嬉しくなってしまった。

     「彼女が最近、急に冷たくなった感じがするので、さっき、会社から出て帰るところを見つからないようにしてついていったんです」
     「ほう、尾行とはまたかっこいいですね」
     「よくないですよ。それで、いつもとは違う方向の電車に乗るので僕も乗ったら、ふたつめの駅の改札で待ち合わせて、そのまま映画館に入って行っちゃったんです。腕なんか組んで」
     「それはちょっと、お気の毒なパターンですなあ」
     「僕なんかのがよっぽどいい男なのに、こんな時、どうすればいいんですか」

     エヌ氏はふと、ふだんとは違うことを答えてみようという気になった。どうせ何千回、何万回のなかの一回だ。どうせ相手は見知らぬ他人だ。たまには愛嬌でもいいだろう。エヌ氏は別人のような声で言った。
     「やっちまいな」
     「えっ?」
     「やっちまいなよ、そんなやつ」
     「ど、どっちをですか」
     「どっちだっていいじゃないか。あんたを裏切った憎い女。あんたから彼女を奪った憎い男。あんたの気のすむようにしたらいいのさ。やっちまいなよ」
     「ほ、ほんとうですか」
     「ここをなんの相談室だと思ってんだい? <ひと想ひ相談室>だぜ。そこの相談員がそう言ってるんだ。ひとおもいにやっちまいなよ」

     相手は返事をしなったが、電話は切れてしまった。エヌ氏はひそかに爽快感を味わいながら、1日の業務報告にサインし、オフィスを出た。
     いまごろ、あいつはどうしてるかなあ。元恋人をぶん殴りにでも行ってるんだろうか。テレビドラマぐらいでしか知らないドタバタ劇を裏で創るというのもたまには面白いもんだな、と考えたりしているうちに家に帰りついた。

     ひとやすみして、夕刊でも読もうかと思った矢先、玄関の電話が鳴った。なんだろう。家でまで電話に出たくないな、というのはエヌ氏の素直な気持ちだったが、こればかりは出ないことにはわからない。
     「はい、もしもし」
     「もしもし、エヌさんのお宅ですか。こちらは救急病院です。お嬢さまが道で暴漢に殴り倒され、頭を強く打って運び込まれましたが、意識不明の重体です。別れ話のもつれか何かのようですが、とにかくすぐにお越しください」

第十話


     電話が鳴った。
     とうとう、電話が鳴った。三人それぞれが、それぞれの思いを抱いて待ち望んでいた電話のベルが、ついに鳴った。もちろん、必ずかかってくるのは誰もが信じてはいたが、みんなの予想通りに、みんなの目のまえで、いま電話が鳴っている。

     もうそろそろだと思って、さっきからテーブルのまわりをうろうろしていたやせっぽちの青年が、さっと手をのばした。
     鳴った。来た。思った通りだ。絶対に間違いはないんだ。ぼくの信じていた通りだ。絶対にうまくいくと思って、ぼくはずっと、この日を待っていたんだ。何度もくじけそうになったけど、何度も希望を失いかけたけど、でもやっぱり続けてきていてよかった。
     鳴っている。今この受話器をとれば、声が聞ける。なんてことだ。こんなことがあるなんて。やっぱり、ぼくが信じてついてきたひとだ。ぼくは、いま、本当に神様に感謝しなくてはいけないだろう。もちろん、先生にも。

     だが、青年の伸ばした手は、目的物をつかみ上げるよりも一瞬早く、丸太ん棒のような毛むくじゃらの太い腕に振り払われてしまった。あからさまに憤慨してみせる相手をにらみつけて、男はゆっくりとソファーから立ち上がった。
     まあ、待て。おまえさんなんかには、この電話がどんなに大事なものなのか、到底わかるまい。わかったとしても、おまえさんにわかるところだけでしかないだろう。いいか、これは、歴史なんだ。俺たちはここから、とてつもない大きなことを、まだだれもやったことのないことを、いま始めようとしているんだ。あいつは、それを知っている。まあ、落ち着けよ。

     電話は鳴っている。当惑している青年、悠然と見据えている男。そしてドアのまえにはもうひとり、エプロン姿のままの婦人が立っている。ハンカチを握りしめ、ぎゅっと結んだくちびるは、かすかに白みをおびている。
     あなた、あなたなのね。あなたが、鳴らしているのね。この向こうには、あなたがいるのね。ほんとうなのね。わたしには何もわからなかったけれど、わたしには何もしてあげられなかったけれど、でも、せいいっぱいの支えはしてきたつもり。
     電話が鳴っています。うまくいった、ということなのですか。これまでの努力がむくわれた、ということなのですか。それだけでも、わたしはうれしい。でも、もし、ほんとうにそうだとしたら、声だけなんかではなくて、いまこのよろこびの真ん中にいるはずの、あなたの笑顔に、そっと手を伸ばしたい。

     電話が鳴っている。もういいだろう、という顔をして、男は青年に電話を取るように目で合図をした。青年はかすかにうなづき、ほんの少し震えながら、受話器を取った。電話は鳴りやんだ。男は黙って上を向いた。青年は自分からは声が出なかった。

     青年の耳に最初に届いたのは、ごくごく当たり前の「ハロー」だった。青年ももちろん同じように「ハロー」とあいさつする。電話が通じたことを確認した相手が、つぎに発した言葉は、「ワトソン君、来てくれたまえ。用があるんだ」だった。そのまま、ワトソン青年の目が涙であふれてしまったのは言うまでもない。打ち合わせ通りだ。

     1876年3月。電話の父、グラハム・ベルは、来るべき20世紀の松明の灯りにもたとえられるこの新しい情報伝達手段を、とうとう人類の前に提示してみせてくれた。伝達の距離を克服する手段として、そしてまた、伝達の時間を克服する手段として、輝かしく、もちろん、それなりのさまざまなドラマをともなって。

付録


     「先輩、さっき例の電話がありましたよ」
     「お〜、あった?」
     「はい」
     「さがしてたんだ。どこにあった?」
     「かかってきました、ってことですよぉ」
     「いや、すまんすまん。で、なんだって?」
     「電話くださいって」
     「ください?」
     「ええ」
     「ほ〜、何色がいいとか、言ってなかった?」
     「かけてください、ってことですよぉ」

所感


     わかる人にはわかると思いますが、
     これは星新一さんの「ノックの音がした」に
     憧れて書いています。
     個人的には、一番好きなのが、第五話です。
     その次が、第六話です。
     そう言えば、確かに、
     その頃はワクワクしながら書きました。


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