そう言えば、いつも突然







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 2010年5月の連休明けのことだ。馬頭のカバちゃん 樺島弘文さんから、珍しく筆の定まらないメールが来た。いわく、田舎コラムを掲載しているL−クルーズというサイトが5月一杯で閉じられる、それに伴って田舎コラムも終了、自分でブログを立ち上げるか、守る会のホームページに移行するか…

「田舎コラム」が終わる?

 「田舎コラム」とは、日経BP社のサイトで樺島さんが連載している「元プレジデント編集長の田舎暮らし奮闘記」のことである。樺島さん自身はいつもそう呼んでいた。

 日経BP社が本業のビジネス分野に集中するため、とのことらしい。サイトを閉じると言っても記事の更新を終了するだけで、既存記事がネット上から消えてなくなるわけではなく、当面はこれまで通り閲覧は可能とのことだった。だが、それにしても突然だ。

 ちょうどその翌週に東京のイベントで一緒の予定だったので、そこで聞いてみた。樺島さんとしては、運営サイト側で決まったことなので仕方がない、というのが基本姿勢。でも、原稿料も入らなくなるしなぁ…というあたりで話が進まなくなる。こちらは何と言っても、毎週の読み物が無くなるのが困る。場所はなんとか探すとか作るとかして、とにかく継続して下さいというのが切なる願いだ。

 既存の田舎コラムはしばらく残して貰えるということであれば、それはそれで有り難くそうして戴こうという話になった。考えてみれば当たり前である。つい最近見つけて、これから5年分を読もうという人だっているはずだ。

 守る会(那珂川町の自然と環境を守る会)のホームページで続けるというのは、あまり考えたくないそうだ。処分場以外のことを書けなくなる、つまり畑のダイコンだの犬の散歩だのとは申し訳なくて書けないということらしい。そう言われると、確かに気持ちは分かる。それに今の田舎コラムは、あの場所なら処分場推進派の人にも読んでもらえると思って書いている、という理由もあるようだ。

 さらに、樺島さんが当初予想もしていなかった読者層というのがある。今は馬頭や栃木を離れてしまったが、故郷の現在の様子を知りたいと思っている人たちだ。日本中どころか、世界中にいる。そういう人たちに、これからは守る会のサイトを見て下さいとは言いにくい。

 結局その日は、自分のブログを作って続けるか、という方向に落ち着いた。名前は「馬頭のカバちゃん 田舎コラム・パートII」がいいかな、とまで自分から言い出した割りには…、まだ何か踏み切れない感じに見える。自分の自主運営でモチベーションが維持できるか、つまり、編集者にせっつかれるとか、原稿料が入るとかが無くて続けていけるか、というのが心配だと言うのだ。

 その後もかなり悩んでいたようで、奥様を巻き込んで「カバツマ日記」と週替わりで出そうかと提案して却下されたとか、いろんな話を伺った。そのうち、執筆者への告知通り日経BP社の「L-Cruise」は2010年5月末で終了。樺島さんも見事な最終記事を書かれているのは皆様ご存知の通りである。だが一般読者には、まさに突然だった。
 それからの日々が月単位、年単位で過ぎて行っても、何故か樺島さんはブログを作ると言い出さなかった。「早く、またみんなの前に出て来て下さいよ」などと、取りようによっては随分ひどいこともうっかり言ったような気がする。しかしそれでもいつも、もう少し落ち着いたらとか、もう少し気力が乗ってきたらとか、けっこう不思議なことを言っていたのを覚えている。

 だがいま思えば、樺島さんはあの時期、大作「小林陽太郎」に取り組んでいたのだ。

ありふれた突然

 突然終わったからというわけでもないが、田舎コラムには、けっこう「突然」が多い。というよりも、田舎では何でもないことが樺島さんには何とも突然、ということかも知れない。

 「樺島さんのナスの苗は駄目そうだ」と思った近所の爺さまが突然、20本もの立派な苗を持って来る。朝の霧雨がカンカン照りになったかと思うと、一転俄かに掻き曇って雷鳴土砂降り、でも突然晴れて夕焼け空になる。

 「家」には突然、本を読んだと思われる見ず知らずの来訪者が都会のクルマで現れるし、「家内」は突然、隣の大爺さまから呼び出しを喰らう。根腐れしていた裏山の杉の木が突然倒れて道を塞ぐと思えば、ロッキーを「うちの子のお婿さんに欲しい」という女性が突然現れたりする。

 地元は突然、注目の選挙区になるし、梅雨時期には、コンニャクの茎が地面から突然ニョキニョキ出てくる。電話なんかより行ったホーが早がっぺという突然の訪問はお互いの了解の元に成り立っている。

 じつはこちらも「突然」樺島家にお邪魔したほうだから偉そうなことは言えない。しかし、そうは言ってもそれはそれなりに、ちゃんとした前史がある。

 樺島さんが馬頭に家を建てたのが2001年6月。こちらが社内の勤務ローテーション、いわゆる配転で宇都宮の支店に赴任したのは僅かその1か月前。その後はお互いにずっとそのままだから、この栃木10年余りは偶然とはいえ見事に重なっている。

 その樺島さんが、日経BP社のブログサイトで「田舎コラム」の連載を始めるのが2005年4月。だがその頃こちらは仕事一筋で(今でもそうだが)、初めての土地で初めての営業分野に只々手一杯だっただけのような気がする。

 インターネットの業務利用が当り前になって、毎日各種のビジネス系メールマガジン(メルマガ)を読むようになってから、日経メルマガでたまに「元プレジデント編集長の田舎暮らし奮闘記」という見出しを目にするようになった。だが、それが栃木の馬頭の話だと判るまでには、そこからまたかなりの月日が経っている。まったくお恥ずかしい。何回かはメルマガから辿って中身を読みに行ったかもしれないが、それもじつはあまり覚えていない。これは本当に申し訳ない。

 鮮明に覚えているのは、「見え透いたウソ」である。那珂川町のジャンヌ・ダルク、益子明美さんの「ほんと、頭にきちゃうわ」で始まる。こういう突然は、かっこいい。
 この記事が反省のきっかけとなった。なんでこれまで見逃して来たんだろう。それ以来、毎週木曜日を楽しみに待っては新作を読み、時間を見つけてはバックナンバーを遡って読んだ。もちろん、「会社を辞めて田舎へGO!」も「馬頭のカバちゃん」も、当時はまだ本屋さんの店頭にあったので買って読んだ。

 馬頭は仕事でもたまに行くので、おかげで何処に何が有るかも大体わかるようになった。仕事先でも、「アンタそんなのよぐ知ってんね」と言われるようになってくる。それにしても、馬頭に縁も所縁もなかった人が、馬頭をこれほど愛せるとは。たまたま仕事で栃木に来てしまっただけの自分は何なのだ、と思わせられる。

 そこでまた突然、NHKに出演するという記事が出る。おぉ、これは楽しみだ。当日は外にいる時間だったので録画で見たが、あれでポイントがガチャンと切り替わった。いや、路線が変わったというわけではないが、つまりは認識を改めたということである。
 田舎コラムや著書を読む限り、樺島弘文さんという人はもっとハシハシ話す人だと思っていたのだ。ところが唖然。あの文章を書く人が、こんなにモゴモゴ話す人だとは思わなかった。まったく以て申し訳ないが、本当なのでお許し戴きたい。こういう認識も突然の部類に入るだろう。

 ここから、こちらの世界も変わり始める。遠くの存在だと思っていた人が、ぜひ会ってみたい人になる。そもそも、同じ昭和31年生まれだ。鉄腕アトムとサンダーバードで育ったはずだ。何しろ、信号いくつか手前の近くまでは仕事でよく行くのだ。近くといっても、あのあたりでは数キロあるが。

 というわけで、仕事帰りとはいえ田舎の通例に則り突然伺う。じつは、先に電話してというのは「なんで番号知ってんの」ということになって警戒されやすい。結局は、手土産持参でまず行って、いなけりゃ名刺と一緒に置いてくる、というのが無難なところだ。予想通り、初回は空振り。その後、名刺を頼りに連絡があり、日時を決めて再度伺った。2008年12月のことだ。もちろん樺島さんにとっては、いつもの「突然の来客・最新版」だっただけに違いない。

 その後のお付き合いは、とても書き尽くせない。本来の仕事の中身もあって、書けない事情もあるにはある。しかしそういうお付き合いがあったからこそ、今こんなことを書いていられるという状況に免じて、これまたお許し戴きたいと思う。そのお詫びとして、出会って(というか押し駆けて)程なく起きた出来事の記事を樺島さんに代わってご紹介したい。

「護摩焚き」写真のエピソード

 「復活した護摩焚き写真」に書かれているのは、実は愚輩である。記事ではパソコンの専門家だの、IT技術者だのと紹介されているが、実体はほど遠い。偶然それに近い仕事をしていて、ちょっと詳しい程度にすぎない。樺島さんがそういう配役を仕立てた、といったほうが限りなく正しい。
 樺島さんは読み物としての面白さも考えて構成しているので、実はあの経緯には少しだけ違うところがある。「パソコンが壊れたので新しいのを買った」「前のパソコンは棄てずにまだある」とのことなので、「前のデータを救えるかどうか、やってみましょうか」と申し出たのだ。あくまでも「出来るかどうか分かりませんが」という状況だった。

 かなり時間はかかったが、結果的にはなんとか修復できた。そこで、そのあと「修復を頼める相手に出会うまで、壊れるのを待っていてくれたのだろうと思います。それがたまたま、私だっただけです。私ならそう思います」と振り返ってメールに書いたのである。樺島さんはその時系列を逆転させ、「専門家はIT技術者らしからぬことを言って、修復を引き受けてくれた」と記事にしている。絶妙のタイミングでの出会いだったことを強調した、さすが巧みな物語の構成と言うべきだろう。

 実はもうひとつある。記事では特に馬頭院の写真を取り出すことが最優先だったように書かれている。しかし実際には、作業前に優先度は付けられていない。とにかく一度は諦めたものだから、何か少しでも修復できればありがたい、ということだった。樺島さんから、「馬頭院」というフォルダがあるので、できればそれだけでも先に送って欲しい、という話が来たのは、修復が全部終わってからだ。

 ところがその画像だけでも数十メガバイトある。とても、メールに添付できる容量ではない。実際に田舎コラムに使われるのは数点だとしても、それを選ぶのは樺島さんだ。そこで、こちらのホームページに非表示の作業エリアを設け、そこに画像群を圧縮書庫形式で格納しておくことにした。そして、準備が出来たら樺島さんに送るメールに、「ここから一括ダウンロードできます」と場所を書いておく、という仕組みである。暫くして、「無事にダウンロードできました」という返事が来た。

 樺島さんの気持ちとしては、最初から記事にある順序のとおりだったのだろう。しかし、「馬頭院の写真だけは…」などと言って作業手順を惑することになってはいけない、と配慮されたのだ。馬頭院のバの字も言わず、こちらに全体の修復を一任してくれたのである。いま思えば、ということだが、たぶん外れてはいない。

 意図的な時系列の編集はこの2点だけだ。それ以外の会話やメールなどは、基本的にノンフィクションで書かれている。八つ当たりの件で「奥様のことは疑われなくてダイジです」という部分は、「〜大丈夫です」に直されているが、これは全国版だから当然である。

 「お陰様で馬頭院の記事が上がりました。増淵さんも少し登場します」というメールを貰った時には、まず馬頭院の紹介があって、最後に「実はこの写真は…」という記事内容を思い浮かべた。ところが、実際の中身はあの通り。だから、次に会った時に「あれ、全然『少し』ぢゃないですよね!」「そうそう!」と、ふたりで大笑いしたのも今となっては懐かしい。

 文章を書くのはもう一度苦しめば何とかなるけど、写真は同じものは二度と撮れませんからね、という言葉に重みがあった。

「日光イン」写真のエピソード

 「突然」やむなく新しくしたパソコンだったので、樺島さんはその後かなり戸惑う。なにしろ、WindowsXPからWindowsVistaへ、Office2003からOffice2007へという、今では歴史に残る「困惑の移行」を強いられた時期だったからである。

 ちょうどその頃、宇都宮の栃木県総合文化センターで「ICT宇都宮地域セミナー」があり、樺島さんが基調講演をするというので、喜んで参加した。ちなみに、田舎コラム常連の藤田製陶所陶主・藤田眞一さんもディスカッションのパネラーとして登壇している。
 このセミナーで樺島さんは同じパネラーの日光イン代表・木村顕さんと知り合い、当日の木村さんのプレゼンテーション画像を自分の田舎コラムに使わせて戴きたいとお願いしている。快諾された木村さんからは、翌日すぐにプレゼンデータが送られてきた。しかしそれは、木村さんには大変申し訳ないことだが、当時の樺島さんには何物かも判らないMacパワーポイントの圧縮データだった。樺島さんは、次の原稿のためにスライド画像を一枚ずつ欲しい。しかも、パソコンにパワーポイントは入っていない。さあどうする。

 新しいVistaパソコンに手を焼いていた樺島さんのヨロズ相談所となっていた拙席に、さっそく支援要請が来た。状況はすぐに判ったので、その手段を伺ってみる。ていねいに展開するか、やっつけ仕事で切り取るか、画質を優先するか、納期を優先するか、再加工できる状態がいいか、再加工は想定不要か、あと幾つか有ったかも知れない。こちらにとっても、簡単と言えば簡単だが威厳と沽券に係わる手段とか、やれば出来るが末代まで語り継がれて恥ずかしいとかの手段だってあることはある。

 その時の樺島さんの答えは、けっこう意外なものだった。ほかに誰も聞いていないので、これだけは今でも誰にも言っていない。これからも言うつもりはない。ただ誤解を避けるために敢えて補足すると、つまりそれまでの他の写真と違和感がないことだけを望んで、あとは任せてくれたのだ。その表現が意外だっただけである。

 かくしてMacパワーポイントのスライドショウは、あたかも最初からそうだったかのように個々の画像に分解され、樺島さんはいつものように、かな入力の縦書きワード文書にそれぞれを貼り付けて、編集さんに送って無事に入稿された。記事「日光インの謎」誕生秘話、というところだ。

 なお、ご本人はこの記事でも「プレジデントITの最終ランナー、しかも周回遅れ」と自負されているが、実際にはそんなことはない。

 じつは、馬頭院の護摩焚き写真を修復したあと、「最近のパソコンは画像処理も速いので、次はテレビ電話に挑戦しましょう」などと軽率に言ってしまった。そのうち「設定お願いしたいんだけど」という話が来るのかと思いきや、ひと月も経たぬうちになんとご自分でWebカメラを買い揃え、ソフトウェアもインストールして使い始めていたのである。これには驚いた。IT技術者樺島弘文氏の設定によるテレビ電話風景がこの記事の写真だ。

名犬ロッキー

 写真と言えば、樺島さんの写真はどれも皆とんでもなく貴重だが、なかでも田舎コラム愛読者にとって貴重なのは、ロッキーの子犬時代の写真だろう。ほとんどの人は、田舎コラム連載が始まってからの成犬ロッキーしか見ていないからだ。サイトの全画像2,198枚のうち、1枚だけである。
 ロッキーファンでなくとも、思わず「キャイン」となってしまう写真だ。もちろん、樺島さんは取って置きの1枚を選んだに違いない。合わせて出ている「今の」(ということは2005年の)たくましいロッキーと見比べていると時を忘れる。

 初めて樺島さんの家に行った時には、皆さまご不在だったのでロッキー君が出迎えてくれた。ところが、「どうもコイツは初めて見る顔だ、アヤシイ」と思われたらしい。最後にはワンワン吠えられてしまった。正直言って、「いゃ、これはマズい」と思った。ロッキーは人には吠えない、というのを読んで知っていたからだ。
 その時は仕方なく帰ってきたが、クルマの後を追うようにしてまで吠えているロッキーに、ご近所は何事かと思われたのではないか。「初対面でロッキー君に吠えられた」という栄誉を誇れる人は、そう多くないはずだ。

 その後はすぐに仲良くなれ、握手などもさせて戴いているのでご心配なく。ただ、クルマの出入りですぐに近寄られるので、いくら注意しているとは言っても轢いてしまわないか、いつも心配だった。樺島さんに言うと、意外にも「その時は、その時ですよ。な、ロッキー」とのこと。きっと今頃、向こうでも相変わらずじゃれているに違いない。

ネットとリアルが交錯する

 メールは月に数回、実際に伺うのは年に数回、という規模のお付き合いでは、不思議なことが起こる。これはたぶん、地元でずっと一緒の人たちや、反対に遠地で田舎コラムだけでしか知らない人たちにはわかって貰えないかも知れない。メールやブログなどパソコン上で、いわゆるネット経由で見聞きしていることと、現実に自分の目と耳でリアルに見聞きすることの時間が反転するのだ。

 例えば、「布ぞうりに悪戦苦闘」という記事が出る。毎週木曜日を楽しみにしているので、もちろんすぐ読む。そのあと、仕事の帰りなどで都合の付いた時に樺島家に寄る。記事に出ていた布ぞうりが玄関に飾られている。これは何もおかしくない。
 ところが話を先に聞いてしまうことがある。馬頭院でみんなで月見をした。フランス人の虚無僧が尺八を吹いてくれた。澄んだ満月の夜空に静かな音色だった…という話を、まるでその場が見えるように話されると、聞いているこちらは本当に見たような気になってしまう。そしてその話は、2週間後の田舎コラムに写真入りで登場するのだ。あれっ?、これ何で今ごろ…という不届きな感覚に陥るのはこういう時だ。
 聞いた話だけでそうなるのだから、実際に行って見聞きしたことになると尚更だ。いつだったか、じゃぁお昼は鷲子山上神社でお蕎麦にしましょう、ということになり、樺島さんの車で出かけた。田舎コラムでお馴染みの金色の大フクロウにお参りして御柱を叩き、96段の階段を往復して、長倉宮司さんにも挨拶させて戴いた。(ちなみに、あの大フクロウは藤田製陶所・藤田眞一陶主のデザインで、手の平サイズの小砂焼はJR宇都宮駅構内の売店にもある)

 こういう場合、その日はその日で素晴らしく終わる。しかし次の日からはまたいつもの日常の仕事に埋もれてしまうし、樺島さんからその後のメールもなければ自分にとっては一日単位でどんどん過去の想い出になっていく。そして2週間後の木曜日に、突然すべてがありありと写真付きで田舎コラムに載るのである。宮司さんに聞いたご利益の話までそのままだ。思いがけなく時間を引き戻される衝撃は眩暈を超えて快感に近い。
 もちろん、ほとんどの現実は布ぞうりの話のように、ネットとリアルの前後交錯なしに普通につながっている。その中でも一番印象的なのは、「寒椿を見に行く」の最初に出てくるベランダの写真だ。
 樺島さんは、文章だけでなく写真の腕も確かである。たぶん、多くの認めるところだと思う。そしてその道のプロの通例とおり、採用一枚の陰には何枚もの少しずつ違うアングル、違う構図の没ショットがあり、さらにその何倍もの没カット、没場面がある。予想はしていたが、馬頭院の護摩焚き写真をフォルダごと修復した際に出て来たものはそうだった。

 樺島さんの写真は、被写体に忠実に写実的である。自分が伝えたい気持ちを、自分が見たままに残すことで伝えようとする。意図したデフォルメを感じることは、まずない。だから特に風景の写真などは溜め息が出るほど美しい。

 ところがこのベランダの写真だけはまったく違う。これは抽象画の領域である。樺島さんがどこまで意図したかは分からないが、この「ハの字」構図は奥行きを表現する遠近法の定石。最高に素晴らしいのは、奥に二つ並んだ白い椅子だ。庭の同じ方向に向いているのが決め手。

 演劇や舞台装置をやったことのある人ならばわかると思う。椅子を二つ同じ向きに並べる、というのは「仲がいい」という表現なのだ。反対に、これから登場する二人は仲が悪い、というのを前もって観客に判らせておく為には、左右の椅子を背中合わせにしておくのが舞台の常套手段。

 樺島さんは、雪がうっすらと積もったベランダを紹介したかっただけかもしれない。でもそれには最終的に構図のしっかりした一枚が選ばれ、結果的にはそこに映っていないもっと抽象的な世界までも伝えている。

 なんだかんだと聞かされるけど、やっぱり仲いいんだよね、と遠くから(ネット上で)思わされた一枚である。次に(リアルに)馬頭を訪ねた時の樺島家のベランダは、雪がなかっただけでまったく同じだった。それはそれで、不思議に嬉しかったのを覚えている。

一番楽しそうな記事

 今回このメモリーアルバム制作に携わって、結果的に全255回の記事をすべて読み直すことになった。ご本人から何度も聞いたが、ひとつの話題にこだわらないで、毎回いろんな事をいろんな方向から書くようにしていた、というのが改めてよくわかる。

 個人的な感想という域を出ないが、一番楽しそうに書かれている感じがするのは、「花を楽しむ自転車ライド」だ。
 樺島さんはプレジデント時代に編集長、出版部長などを歴任されている。当然、上司として部下もたくさんいたはずだ。しかし、いわゆる組織人としてのイメージはあまり無い。各方面に根回しをして自分の仕事を巧く進めたり、人を踏み台にしてでも偉くなったりといった組織力学はあまり好きでなかったのではないか。

 会社が嫌い、組織がイヤだという訳ではなく、それ以上に「田舎暮らしがしたい」という、周りからはほとんど理不尽としか思われない理由で円満退社しているのだ。そこにあるのは、突き詰めると自分への思いだろう。

 自分で出来ること、自分に出来そうなこと、自分なら出来ること、自分にしか出来ないこと、自分でやってみたいこと。それをやるのは自分で、今がその時期だと判断したのだから、すべては自分の責任で行動することが大前提だ。

 ものを書くのも、自転車で走るのも、自分の力である。樺島さんは、自分の考えや自分の力を発揮する手段を自分自身に託して、それを自分自身に課して行くことで自分の目指すものに近付こうとしていたような気がする。樺島さんにとっては、ものを書くのも、自転車で走るのも、同じく自分と向かい合うことだったのだろう。

 著書の紹介文によく書かれ、ご自身も自虐的によく言っていた「家族を巻き添えにして」というのは、ある意味かなり的を得ている。だがこれを単に自分勝手と言ってしまうのには忍びない。普通の人がやりたくてもそう簡単には出来ないような生き方の大変革を、自分の思いで成し遂げられたのは、やはりご家族の協力があったからだ。これはいくら力説しても尽きることはない。

 たとえば、地元栃木出身の政治家、芸能人、スポーツ選手など、名前を挙げられる人はそれなりにいる。だがほとんどは、その人を知っているだけだ。その家庭や暮らしの様子、ご近所さんやお付き合い先のことまで知っていることはまずない。

 プレジデント編集長時代の樺島さんについては、残念ながら存じ上げていない。ここを読まれているほとんどの方々も、たぶん同じだろう。だが、「元〜」という肩書きの付いた馬頭のカバちゃんのことは、よく知っている。しかも樺島弘文さんだけでなく、奥さん・息子さん・ロッキー君の4人家族として、樺島ファミリーとして身近に知っているのだ。それは、なぜか。

 樺島さんが、進んで地元に溶け込み、地元にだけでなく、社会全体に対して自ら情報発信してくれていたからである。受け止める人は、ちゃんと受け止めている。本の読者は日本中、ブログの読者に至っては世界中にいる。たくさんの人々に支えられ、見守られての田舎暮らしだったと思う。

 あくまでも一人で走り、里山の美しい景色を楽しみ、名も知らぬ花を愛でる…この記事にまったく孤独感がないのは、樺島さんの存在自体に孤立感がないからだ。樺島さんはたくさんの人に受け入れられて自分を通していた。この記事が「同志に出会った」という話で締められているのも、偶然ではないだろう。

一番恐ろしい記事

 その一方で、一番恐ろしい記事は「田舎の健康診断」である。強いて挙げれば、その次が「ロードバイクと田舎暮らし」あたりだろうか。詳しい解説は無用なので、読んでいただければお判りいただけると思う。というよりも、恐ろしくて書けない。それぞれ記事の中に思いがけないキーワードが出てきて、ギクリとする。ただし、記事が書かれた時点では、もちろんその後のことは予想されていない。
 今回、記事のキーワードリンクを作っていて判ったことがある。「健康」という単語は、この「田舎の健康診断」以外の記事にはほとんど出てこないのだ。樺島さんが健康を考えていないはずはない。しかし、体中の細胞が喜んでいるという田舎暮らしで、自営農園で無農薬野菜を育てていても、田舎コラムの中では自らの健康にはほとんど言及していないように思える。残念である。最後の突然だけは、決して突然ではなかったのかも知れない。

 もちろん、田舎コラムに書かれていないだけで、話の題材にはされている。たとえば、貴重な資料が手元にある。宇都宮南ロータリークラブ会報、通算第1341号(平成21年5月20日)である。この日樺島さんは月例会に招かれて卓話として「田舎暮らし」をテーマに話をされ、その内容がそのまま残っているのだ。「私は今、53才です」から始まる話は、田舎暮らしをするようになった経緯から現在の様子までが語られており、ある意味で田舎コラムの集約版のような内容になっている。ところが、田舎コラムにはほとんど書かれていないこの手の話も、この日樺島さんは語られていた。
 都会に居る時は、自分の身体に付いて考えたこともなく、毎晩酒を呑んでも持続力も体力もあると思っていましたが、馬頭に来て身体の悪いところが出始めました。一番酷かったのは大量の鼻血が止まらなくなりましたが、何故か身体が楽になるように感じました。これは漢方医学で言う瞑眩(めんげん)で、好転反応ではないかと思いました。
 病院に行かず4ヶ月ほど過ぎますと、頭が軽くなり肩こりや腰痛もなくなり、身体が良くなったように思えました。これはある程度規則正しい生活と、ストレスからの解放により、身体が自分で悪い所を治そうとした作用ではないかという印象を受けます。
 やはり、考えていないハズがないのである。それはそうだろう。樺島さんだから。

 誰も言わないとは思うが、「自転車を始めなければ」というのを言い出すと、結局は「田舎に来なければ」に行き着いてしまう。そこまで行ったら、まるで東芝日曜劇場のようなこの樺島ファミリー物語は最初から無い。だから、そんなことは想定しないほうがいい。

 加山雄三が音楽についてよく引き合いに出す話がある。孔子の『論語・学而編』にある「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」だ。これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。

 知ってるだけの奴は、好きだという奴には及ばない。でも、好きだという奴も、楽しんでやってる奴には及ばない。「オレは楽しいよ!」という加山雄三の音楽を、樺島さんの自転車に置き替えれば納得もいく。そもそも、何であれ嫌いなことは続かないからだ。樺島さんは、田舎に来て自転車を発見した。それでいいじゃないかと思う。

樺島さん!

 ということで、僭越ながら樺島さんの文章スタイルをまねて書いてみました。樺島さん、あれこれ書いて、ゴメンナサイ。締めくくりは、いつものメールのとおり、「では、また」。

2013年1月 沌珍館企画 増淵光伸


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